316と号泣。

316とは、総会長牧師チョンミョンソク牧師の誕生日です。
毎年思うのは神様への感謝にあふれてらっしゃる。ということです。

わたしは、チョンミョンソク牧師に直接会ってはいないけれども、
教えてもらったこと一つ一つが、私の人生というか、生活というか、心を救ってもらったことがまさに人生を救ってもらった。ということであり、つまりはそれが出会ったと、とらえている。

だから、チョンミョンソク牧師の誕生日は感謝と敬意を改めて覚える日です。

先生がなんで、みんなのためにグランドや散策路を整備したり、飲食の手配とかこまごま気を使われるのか、ずっと不思議というか「なんでそこまでするんだろう?」と理解が難しい気持ちがありましたが今年の3/8主日の説教で「仕え敬うことが信仰の基本です」そう教えてもらって、すべて納得。

「仕え、敬う生」を生きている。イエス様がそう生きたから、先生もそう実践しているということだったんだ。やっぱり。と、ようやく腑に落ちました。

真理の味、愛の味、それは行なった人しかわかりません。そうおっしゃるチョンミョンソク牧師に教えてもらって、仕えるって何ですか?どういうことですか?と尋ねながら過ごしてみた中で、「平安」味わったことがない穏やかさ温かさをほんのり感じました。

しかし実際、「仕え敬う」ことは、なかなか労力、エネルギーがいるものです。年を取る分省エネモードになるものだと、祖母を見ても、両親を見ても、自分自身を見ても思います。
でも、先生はずっと変わらない。むしろ、より次元を上げている。

先生がいる今の場所は過酷という言葉が浮かぶしかないです。
「あきらめるな」という一言を言うことさえ難しいはずです。

きょうの主日礼拝の祝祷で先生は一人ひとりの人生のために、世界のために、祈ってくださっていましたが、「あきらめないで」という一言が、先生の生きてこられた今までと、そして今もなお変わらないイエス様、神様への絶対的な愛と信仰、行なってこられたその精神を感じて涙があふれるしかなかったです。

レビューというか、記録的な感想。テミスの不確かな法廷。

主人公は、自閉症スペクトラム障害とADHDであると診断されている裁判官。
「自分は宇宙人で、地球の人々を観察するためにきた」と独り言がストーリーの始まりに名刺代わりにある。

フツウが分からないことによる苦痛を知っている味わって生きるゆえに
「わからないをわからないと、わからないがわかるようになりません。」と、いうポリシーのもと裁判に携わる。

大体の人は、なんとなく通例のごとく通り過ぎるようなところを「わからない」を、明確にして向き合っていく。そして、見えなかったものが見えてくることで、嘘がなくなる。
真実が見えてくる。

わからないということを見過ごさないというか、見過ごせない特性が、個性として生かされている。

ドラマだから。と、ひとくくりにしてしまうこともできるが、ドラマを通して現実に起きていることも知ることができるのがこの作品の味かもしれない。

裁判所は件数を上げないと、赤字になるから件数を上げることを大事にする。自分の上役ばかりを気にするヒラメ裁判官が多い。そういう現実があることも物語のなかで示唆され、あるべき公正な裁判をした裁判官がむしろ左遷のような処遇を受けるということ。これは、物語だけではないとレビューされてるのを見かけた。

最終回で伝えたかったことそれは、裁判では公平正義、真実があるべきだけれども、それは本当になされているのか?「不確か」な法廷なのが現実である。しかし、その現実を受け止めて、どうするか?どうしたいのか?それが、司法にかかわる一人ひとり、法律と権利を知る必要がある私たちにも問いかけられている気がした。

発達障害は特性であり個性。そう認められるようになりたい。そうなれるように生きたい。と、そう主人公が、劇中で告白するシーンがあるが、理解されにくかったり、誤解されたりすることによる辛さを抱えつつも、前を向いて自分はそれでも生きる。それでいい。そうありたい。という、言葉はあたたかく響く。

私は神様が一人ひとりに与えてくださった才能、素質、良いところを見つめてそれが生かされることが本当に世界を良くするだろうなとしみじみこのドラマをとおしておもった。

良いところはよりよく、足りないところは学んだり、互いに補いあえたらホント理想世界だなと。