嵐が最高だと言われる理由をかみしめる。

これからも大好きだと口々に言われる。心に生き続けるそういう存在に、生きたままなれるって本当にすごいことだ。

リーダーの大野君のメッセージに自分の心に大切にしまって生きていく。とあったけれども、嵐のメンバー一人ひとりがそれぞれの個性、特性を最大限に生かしたし生きているといえるグループだった。それぞれが互いを認めて、互いを必要として、背中を任せられる大切なメンバーというのが伝わってくる。「かけがえのない」という言葉が嵐の一人ひとりが思っていることであり、また嵐を心から大切に思うひとたちそれぞれが思っていることだとおもう。

嵐のファンは男性も多く、またその年代も幅広いことでも有名だ。というところから、私は嵐について注目をするようになったのだけれど、彼らの過去のトーク番組の切り抜きであったり、ここに活動している番組や、インタビュー目にする際になるほど。と、納得した。
それぞれが自分の個性を知ってちゃんと生かしている。自分が好きなこと。自分が得意なことをプロとして提供できている。ただたんに、アイドルだから。という枠の中にいるのではなくて、仕事をする上で大切なところをちゃんとつかんでいる方々なのだなと。

彼らの歌やダンス、存在が本当に人の心を動かすものとなり、癒しやチカラとなり、だれかの心の支えになり続けているし、これからもそれは変わらない。
それは、聴く人見る人、ファンに対していつも最善を尽くそうと努力し実現してきたからだろうとおもう。誠実なだったから愛されたし、これからも愛され続けるんだろうな。

引き合いにあらわに出されることがはばかれるようなラストになってしまったSMAPとまさに対局にあるともいえる。個性や特性それぞれあるとしても、それが調和し平和かつ団結して一つの目的を成していく。と、言葉にすることはできても実現することがなかなか本当に難しい団結することについて、チョンミョンソク牧師がさまざま説いてくだったことを思い返すと、嵐はそれらを知らないうちに実践しているなぁとみていておもった。

私はグループ的な活動にまたかかわろうとしても、空振りになること(面倒くさがられる傾向がある)ので、互いのために孤立しているのが一番よいのだろうなと納得して久しい。ので、嵐をみてなるほど~このように互いを信頼し、調和するとこんなに素敵なのか。なるほど、見ていて安心安全というか、他にない安定感とかすごいなぁと教えてもらう啓示的存在だった。

解散という言葉を使わずに「活動終了」という表現を使ったのも、ほんとうによく考えられている。事実上解散だとしても、解散よりもずっと受け止めやすいだけでなく、想いが詰まっている。「嵐」としてのこれからはない。けれども、その存在は、ずっと心には生き続ける。
メンバーの中にも、ファンの皆さんのなかにも。
ラストコンサートでのメンバーそれぞれの一言を読ませてもらって感じた。
活動終了という言葉には、感謝と愛がぎっしり詰まっていると。

肉体は有限。
一生懸命に生きるってことは、限界を知るってことでもあるような気がする。
四十路が見えてきたころからそんな事ちらほら感じました。良い意味での限界を知るなと。
しかし、過去があり今があるから、次がある。終わりが始まり。と言えるような限界。
それは残念さよりも、新しく向かう場所に向かっていくすがすがしさがある。
彼らを見て思いました。
そして、いつも最善を尽くすチョンミョンソク先生の肉体の限界を超える、見えない未来をみて行い続けるその姿をみても同感です。

今はなき名店のグーグルマップのクチコミと私の記憶と記録。

結論は、人それぞれである。そして、それは自由であるというところにある。
けれども、もったいないなぁ残念だなぁと。そういう気持ちが、こみ上げるだから文字にしておこうと思った。

山梨大学の近くに今は駐車場になってしまったけれど、中華料理屋さんがあったのだ。
通るたびに、小さく古びた平屋建てのお店のたしかな存在感は、何十年と様々な人を満たしてくれて来たような気がして、ずっと気になっていた。

しかしあの場所、今でこそあちらこちらにコインパーキングが出来たけれども、当時は皆無かつ駅から離れているため、かなり機会を設けるかたちなってしまう。
なので、チャーハン食べたいなぁと思ってからお店の扉の前に立つまでにかなりタイムラグがあった。

さぁようやく、と思ったその日は後悔の日となった。
出前のバイクも、のれんも出ていないな。と、お店を遠目に見たときに思った。
嫌な予感がした。
ただの休店日であってほしいと思いながら、扉の前に立った。
ガラス越しから店内をみると、壁ににぎやかにかかっていた品名は全部なくなっており、
カウンターもすべて空っぽだった。

閉店されていたのだ。
ピカピカに磨き上げあられたカウンターが、このお店がどんなお店で、店主のかたがどれだけ真心を込めていたのかが感じられて、本当に後悔をするしかなかった。

あまりにも、あまりにも後悔して気を紛らわせるような気持ちでグーグルマップの口コミを見てみた。
やはりチャーハンが絶品のようだった。
わずかな低評価があり、覗いてみた「店主が嫌だ」と書いてあった。
お金を出しているのだから、客のタイミングで食べてもお店は何の損もしないはずなのに、スマホを置いて食べろと言われ非常に不快だった。
そんな感じの内容だった。
それに追従するような投稿が3つほどあり、時期も似ていた。
おなじような体験をした人がいたのか、憂さ晴らしに同じ人が別アカウントで書き込んだのかわからないけれども、そういう思いをした。ということだろう。

低評価クチコミから約半年後のクチコミに「アツアツでパラパラの絶品チャーハンを食べたくて息子に会いにくる口実でお店に来ました!!お店のご主人が寡黙な職人タイプでちょっと怖い印象がありますが、人情あふれる昭和を思い出します。素敵なお店が息子の下宿先近所にあって本当によかったです」とフォローするような内容を見つけた。
また、OBが「昔から変わらない。懐かしくて、帰省の際によれたら寄っている。口うるさいかんじが今の子には、理解できないんだろうな」という一言も目にした。

店主が75歳以上になり高齢のため、お店を畳んだ。ということのようにも見えるけれども、
苦々しく残念な気持ちが食べられなかった絶品チャーハンを思う分、わたしの中に広がった。

若い人のなんで怒られなければならないの?自由に食べさせてよ。という気持ちもわからなくもない。
言い方は無骨で、嫌な言われ方をした気分を害した。味わえない心持になった。ということだろうけれども、
電気が消えた店内でも輝きを放つ磨き上げられた美しいカウンターを見て私はおもう。
重い中華鍋を持ち上げて、御飯と卵がよい感じに混ざって、香りと彩りが豊かになったころ合いを見計らっておいしそうにお皿に盛りつけアツアツの美味しい状態を味わってもらいたかった。来てくれた人を思いながら作るタイプのかただったんじゃないか。と、

せっかく美味しく作ったのだから、美味しく食べてもらいたい。
そういう気持ちだったんじゃないか。
それが届かなかった残念さというか、それを受け取れなかった若者たちの残念さが勝るところがあるように思えてしかたがないのだ。

時代が変わった。ジェネレーションギャップ。価値観の相違。
と言ったらそれまでだけれど、永遠に食べられなくなってしまった絶品チャーハンをとおしてわたしは深い教訓をもらった。

クチコミ件数50越えかつ総合評価が4.0を超えても、ほとんどの人がおいしい。と言っていても、店の主人が嫌だ。という人たちは一定層おり自分の価値観と相容れない。自分のタイミングで食べたいと、すぐに食べなくてもいい。それが客の自由である。という声。
いろんな価値観、考え方があり、それぞれ自分が正しいと主張するとなると戦いになる。

でも、じつは簡単なことだ。
美味しい。とは嬉しいこと。

自分のタイミングを重要視する、自分の価値感を大切にしすぎると、自分の得るはずだった幸せを逃すだけでなく、失うこともある。
そういったシンプルなことを逃しているかもしれないと。

気づけなければ、それこそ一生何が欠けているのかわからないままになる。

楽しい。うれしい。も、人それぞれである。
しかし、食べることは生きること。
美味しく生きるには、一人では生きられない。
誰かの存在があってこそ、でもある。
そういう、他者への敬う思い、想像力をいつも抱けるか?そういうこともこの事例から学ばせてもらった。
あと、人は言われた内容よりも、言い方が気になるもの。という心理学系の本で見かけた話を思い出した。価値観の相違プラス自分のプライドを傷つけられるような言われ方をした。と感じるような言われ方だったのだろうと。
わたしが父や妹と不仲なのはおそらくこれであると省みる機会となり、あらたな自分づくりの材料になった。

今週の「相手の心にあわせて行ないなさい」という主日礼拝のメッセージとリンクするところがあり、豊かな人生を生きるとはどういうことなのか。を思い起こす今はなき名店のエピソードは、食べたくても食べられなかった絶品チャーハンの対価のような気がする。