映画「福田村事件」が昨年秋に公開された。歴史の中に埋もれているというよりは、隠されてきたことを映画にするということはなかなか難しい。(福田村事件:関東大震災の際に「朝鮮人が井戸水に毒を入れた」と、さまざまな悪い噂(事実無根)を新聞で取り上げ続けたその結果、歴史の闇に埋もれさせたと言われている大虐殺が起きた。)韓国では記録された出来事だが、日本においては歴史を教える先生の判断というレベルなので、知らない人のほうが多い。そういった背景もあり、映画製作費はクラウドファンディングでほぼ集められたそうだ。

朝鮮人大量虐殺は嘘だという意見を持つ人たちもいるが、なぜそれが事実だと言えるのかというと、当時の様子を見た子供たちの作文が残されていたからだ。また、自分の祖父母から伝え聞いた記憶を持つ人たちもいる。(私も、亡くなった母方の祖母から聞いたことがある)

事実を知る人たちがいるのに、なぜ虚偽が本物の情報のようになってしまったのか?

人間には、ポジティブな情報よりもネガティブな情報を重視しする「ネガティビティ・バイアス」と呼ばれる性向がある。(バイアスは「先入観、偏り」などの意味)。意思決定の専門家の調査によれば、人間はたいてい、自分の身に起こりそうな良いことよりも悪いことのほうに敏感なのだという。たとえば100ドルを得るよりも失うまいとする計算が働く。したがって「願望の噂」より「恐怖の噂」が多く出回ることになる。
(「うわさとデマ 口コミの科学」 ニコラス・ディフォンツォ 講談社刊行より引用)

「集団心理にメディアが及ぼす影響の大きさ、人が持つ不安と心配に関わる内容は視聴率が高くなる。それは今も昔も同じだ。」と映画、福田村事件の監督がインタビューで語った言葉に深くうなずくしかない。

福田村事件がチョンミョンソク牧師の裁判とどう結びつくのか?

チョンミョンソク牧師に関しての一連の報道を視聴した人々は「こんなことはあってはならない」という思いが強固に生じたはずだ。「断罪すべきだ!」だと思ったに違いない。それが人として当たり前の反応だと思う。そういう思いに駆られるしかないように作られたドキュメンタリーテイストの「ドラマ」そのものを、事実として報じたものだったからだ。

去年の春ごろ、その報道を通してキリスト教福音宣教会の信徒の経営する会社、お店など犯罪加担者のように公開報道されたことで経営困難となったという話も聞いた。

世論感情が一つになるような記事、表現をメディアが発信し続けるならば、受け取り手の意思決定に大きな影響を及ぼす。これが福田村事件とチョンミョンソク牧師の裁判の共通点だ。対岸の火事のような社会的雰囲気が、韓国にも日本にもそれぞれ当たり前にある。それは残念だけれども、現実だ。

共通点を通して見える2つの問題

ひとつは、言わずもがな「メディア」が事実確認をせずに報じるという問題。
もう一つは、メディアからの情報を受け取り手が鵜呑みにすることで起きる問題。
いずれにしても、それらの問題の被害者は自分になってもおかしくない。

時事問題解説に引っ張りだこの池上彰さんが自著「分かりやすさの罠」において「フェイクニュースを無くすことはできない」という見解を示されている。

「一度、流布したフェイクニュースは長い間、人々の記憶にとどまり続けます。
たとえ、後で訂正されても、一度「ニセ」を信じてしまった人々の考えを変えることは容易ではないのです。「信じたいものだけを信じる」人の心に、どうすれば「真実」を訴えることができるのか
有効な対策はいまだ見つかっていません。」
池上彰著「分かりやすさの罠」より引用

問題を問題のままにさせないにはどうしたらいいか。

先に紹介した「うわさとデマ 口コミの科学」の著者ニコラス・ディフォンツォ氏はデマかどうかは調べれば必ずわかると同著で語っている。デマを防ぐことについて議論、検討をするよりも情報を受け取る側の思考力、行動力を生かすならば個々や社会にとって有意義な結果をもたらすという意見を示されている。

全部疑えというよりは、それが本当かどうかを確認することだという。そうすることによって巡り巡って自分の益になる理由は、鵜呑みにすることのほうが楽な分、確認することが面倒だし、手間がかかるけれども、鵜吞みで生じる害がない。

明確な根拠がないまま有罪判決で終わらないように、チョンミョンソク牧師の裁判は控訴し第二審が始まった。

そしてまたネットフリックスに対して、名誉棄損、損害賠償を訴えた。

私は、チョンミョンソク牧師の一連の裁判を通して、起訴されたら99%有罪になるのが日本だけではないと知った。検察が「起訴妥当」とするならば、それをもとに判決はその方向で進むのが日本だけではない。ということをリアルに感じた。証拠となった音声ファイルが検証の結果、作られたものかもしれない可能性があるという事実があったとしても有罪になるという、やりきれない現実を味わっている。

それでも、チョンミョンソク牧師は「 最後まで神様だけに望みを置きなさい。」と伝えつつ自ら今日も実践信仰をしている。

信仰とは信じるだけでなく、信じて行なうことであり、信じて行なうことの積み重ねだ。と、かわらずに説き続けている。

スラムダンクの安西先生の名言「諦めたらそこで試合終了ですよ」は、本当にそれその通り。だと染みるけれど、それを絶望的な状況環境でも行えるかどうか。
何があっても変わらずに、神様を信じ、その愛と真理を行ないながら伝えるチョンミョンソク牧師を見ると自分の人生に起きている諸問題についても天を仰いで行なおうと思えるのだ。