アイドル映画と思いきや社会派映画、鋭く深い内容だ。というコメントを見かけて視聴した「法定遊戯」は、教材にもなり得る作品だった。
この映画は検察や裁判のありかたについての問題提示だと私は捉えた。
司法問題を悲劇的な物語を通して赤裸々にしたと言える。
それはフィクションだからこその強みだと思う。
「検察が冤罪を認めることは絶対にない。」これは「法定遊戯」の劇中内で言われるセリフだが、日本においてほぼ冤罪として認知されているような「袴田事件」を思い起こすと、それはフィクションではなく、現実にあることなのだと痛感するしかない。(詳しくは日本弁護士連合会袴田事件を参照)
また、この映画のネタバレにもなってしまうが(これから見る方すみません)痴漢などの性犯罪の冤罪は証拠なしで有罪になることは以前より知られているかもしれないが、まさに実際にある話だ。
何日も取り調べを受けて、被害者の話だけを軸に進む。痴漢を性犯罪を実際に犯したのかどうか?という取り調べではなく、犯行をおこした前提で判決は有罪と決まっている。
「法定遊戯」の劇中で法学部の大学教授が「冤罪と無罪の違いは何か?」と学生に問う場面がある。
「冤罪は神のみぞ知る。ことであり、無罪は検察が有罪だと立証できなかったことである」と作品の軸となる人物が答える。この一言にある種の違和感というか、引っ掛かりを覚えるのだが、こう言い切った理由が物語の後半で明らかになる。この一言の指す意味がその人物の命を懸けた訴えとなっている。
冤罪は真実、事実についてであり、無罪(あるいは有罪)は人間が勝手に決めたことである。ということが痛切に心に残った。そして、同時になぜ無罪と冤罪の違いが、私はあいまいだったのだろうか?と気になった。
思い当たった答えは、使命通りにそれにふさわしい行動がされているであろうという勝手な期待、思い込みがあるからだと思った。つまり、検察は検察としての働きを成して、裁判も公正に行われるだろう。という、思い込みがあったと気づかされた。
簡単に取れない資格で誰でもなれるものではない。としても、結局どのように行うのかはそれぞれの良心に委ねられているゆえに、本来のしかるべきことが行われないことも起こりうる。 つまり、有罪になる事実や証拠はないとしても、有罪になる場合がある。
無罪は「有罪にすることが出来ない場合」だとするならば、本当は有罪なのに、無罪放免にすることが起こりうる。ということであり「法定遊戯」の結末はまさにそれである。
冒頭、法学部内で行なわれている疑似法定ゲームの場面から始まる。そのゲームの名前は「無辜(むこ)ゲーム」という名で無辜とは無実、罪がないという意味だと紹介される。なんで、こんな分かりづらい、聞きなれない呼称にしたのだろう?とおもったのだが、この印象が残る名称であるからこそ、映画を観終わってからじわじわと理由について思い至った。
裁判は有罪であるかどうか?より、無罪の要素、理由、証拠をもとに審議されることがすこしでも冤罪を防げるのではないか?「疑わしきは罰せず」を履行するならば、たしかに「無辜、無実」であることを前提に確認、調査されるほうが、あってはならない冤罪もふせげるのではないだろうか。そんな思いに至った。
「袴田事件」にしてもチョンミョンソク牧師の裁判に関しても、証拠がない「推察」で「有罪」がまかり通る裁判になっている。 (証拠物がいずれも事実とは言えないものになっている。それなりの事実関連が必要なはずなのに。チョンミョンソク牧師の裁判においての証拠物に関しては音声ファイルに真実性がない作られた可能性があるものとのこと。)「袴田事件」で死刑宣告をした裁判員3人のうち1人の方は、たしかな証拠がないのに、どうしてこんな重罪をと、ずっと後悔をし、精神を病むほどだったそうだ。人生の半分以上監獄で過ごした袴田巌さんは拘禁症状を発症し、今もその症状は続いている。袴田さんのお姉さんは「巌を元戻せとは言わない。ただ、こういうことが起きているということ。そして、あってはならないことを無くさなければならない。そのために伝え続ける」と話されているのをみたことがある。
犯人扱いされてあらゆる権利を奪われ、名誉だけでなく、その報道によって、家族も傷つけられ、袴田さんの受けて来た苦痛と憤りは言葉にならない凄惨なものだろう。
どうしたらこういうことが起こらないようになるのか?
その肩書通りにふさわしい行いがされているだろうという信頼は、あまりにも無意味というか、あってはならないことを生じさせている可能性が高い。その残酷で残念な現実を一般常識のように広く知られることが必要ではないだろうか。と思った。