ここ数年、山梨は自殺者数1位を維持し続けている。
人口の10万人以下の自治体で、という前置きがあるにしろないにしろ、いずれにしてもその自殺者数が多いのは事実。
たしか、去年、おととしは若い世代や女性の自殺者が例年より多くなったので、女性へのDVや家に帰りたくても帰れないような状況にある若年層に向けて行政やNPO団体が様々な呼びかけや取り組みを行ない始めたのを今年は新聞やニュースで見聞きする機会が多くなった気がする。
今年は、50代男性の自殺者が多めであるそうだ。
自営業、会社員、いずれにしても、家族がいるにしてもいないにしても、そうせざる得ない状況に陥った。
そういうことだと思う。
生きることのほうがむずかしく見えてしまうような心理状態になる原因、背景はそれぞれだろうが、
共通して生きることを難しくさせているのは、囚われてはいけないはずの考えにとらわれるようになった原因は自分では解決ができない。そう思ったからではないかと思う。
だから、死を選ぶしかなくなる。
とくに、行政機関や弁護士と言った救済に当たる人達から無下にされると、自分はその程度なのだ。
と思うしかなくなる。
生きていればなにか打開策があったはずでは、と思う方がもしいれば、その「何か」を具体的に考えていただけたらと思う。なぜならば、上記にあげた「なんらか助けられる可能性の鍵を持っている立場」の方々はご自分のことで手いっぱいで、門前払いを平気で行われるからだ。
結局、世の中、お金なのか。
自分で自分を守るしかないのか。
そういうことを、味わわなくてはならない。
それが、若い世代ではなく、年取ってからというのは、やるせないというか、絶望と書いて「じぶん」と読む、その心はそのような有様である。と独り言ちる気持ちを汲むことができる人に、もし一人でも会えたならば、自死しなくても済んだ人もいたかもしれない。
また、絶望するような状況について、心を寄せる人が少しでも増えれば、社会が少しは変わるかもしれないが、助けられる可能性を持っている役柄の人々さえできないならば、どうしたって、むずかしいだろう。
生きていればどうにかなる。
考え方や取捨選択を今までとは違ったものにすれば、なんとかなる。
というのは、確かにある。
ただ、私は、信仰、神様について、聖書を通して、6千年かけて紡がれてきた信仰で生きた人たちが伝えたその愛と真理について説いてもらって、少しずつ具体的に生活をとおして雨だれが何年もかけて石を穿って凹みを作るように、時間を掛けながら、知る前と知った後の違いが現れるようになった。
川流れの中で石が研磨されて削られていくように、ショックを通して悟ること、気づいて改めることもあった。
そういう、繰り返し、積み重ねをとおして、諦めるな。と、いう心が芽生えるようになっただけだ。
今年、私が入社した会社は、法令違反をしていた。
入社時に労働条件通知書をもらって、有休休暇は1年後に6日とあったので現行は半年後に10日付与であることを伝えた。そして、「今年からはそのようにしたいと思う」という回答をメールでもらった。
が、半年後に付与されたのは6日、だった。
「うちは6日でないとやっていけない」とのことだった。「また、それが嫌ならば辞めれば」とのこと。
社長が言っていることはおかしいとしても、それに合わすほうが生活的によい。そう考える方もいる(その方の判断を悪いとは思わない。自己責任だから。)としても、入社当初に確認したことが守られないならば、ほかも嘘なのだと、明白になったので法令を盾にして有休休暇10日消化で退職を決行した。
が、勤務していない分の給与支払いをしたくない。という考えの社長(先輩方から聞いた話では10年前は有給自体がなかったとか。数年まえに有休付与日数の5日は必ず消化するようにという法令に変わったときに、ようやく有休休暇が生5日間生じたが、今も有休休暇を使うと揉めるそうだ)なので、ちゃんと支払われない可能性を考慮して、労基署へ電話相談したところ「情報提供か、申告」という提示をもらった。(後者は、確実に捜査されて是正もされるし、結果についても申請者に必ず報告がある。)
昨年の労災事案のときに学んだことだったので、概要は知っているので「申告でお願いします。」と伝えたところよくご存じですね。と少し驚かれたが、本当に社会をよくしたいならば、この機関とシステムについて、もっと広く知られるべきではと改めておもった。(意図的に違反している会社に、仕方ないと従属している人たちが多い過ぎるから)
情報提供は、電話でのみ、匿名でも可能だけれども、捜査されるとは限らない。
申告は、かならず労基署の窓口へいって、書類記入が必要かつ、自分の名前で申請をする必要がある。
今回、はじめて分かったこと、それは、実害の証拠判断が捜査員にあり、捜査員によっては申告ではなく、「助言」で処理をするべきという判断をされることだった。
助言とは、捜査員ではなく、窓口の職員が該当事業所へ是正勧告をする。というものであり、明らかに違反しているとしても、今回は見逃すから、改善してね。と促すようなものである。
窓口の職員の話からすると、どうやら申告の場合は、捜査で実際の証拠を押さえて、法令違反ですから罰金です。という流れになり、助言だと、是正しなさいと教育をするだけになる。それでも、違反を続けるとなると、罰金も小さい金額でもないため(少なくとも30万~)、だいたいの会社は是正するということらしい。
罰金を払うことで会社が潰れてしまう可能性があるから、助言で進めてあげようよ。という気持ちが労基職員の皆さんの想いらしい。(違反を15年以上していても。それでも在籍している社員がいるのは確かなので、それが妥当なのかもしれない。私は違反しながら経営、運営するくらいならば解散したほうがいいと思ってしまうが)
単に捜査員が自分の仕事が増えないようにしているという面もあると思うけれど、事業主と労働者の中立の立場をとる労基署としては、そういう判断になる。ということを学んだ。
しかし、実際、電話で相談した時には、私が入社時にやりとりをしたメール(今年からは是正するという回答がある内容)と、そうではない現実(有休付与6日と明記された給与明細書)の証拠をもって、窓口に来てもらったら申告で、申請できますよ。と言われた。
ただ、実際の捜査に入る担当者の観点としては「有給申請をしても、無効にされたり、法令通りの受理(10日消化)がされなかったときに、初めて申告という対象になる」とのことで窓口の職員の方から「捜査員がそういう見解で言っているので今回は助言でいいですかね?」とのことだった。
私としては、もう辞める会社なので、ちゃんと権利が守られるならば、申告でも、助言でも、どちらでも構わないのだが、実はこの会社ほかにも勤務時間の計算が30分単位であるとか(残業計算もおかしい可能性が高いのと、祝日に出勤しても平日での計算だった)、今年入社した人、勤続年数が1年未満の人は健康診断対象外であるとか(法令的には1年以上の雇用見込みの場合は対象。そして、わたしは就職氷河期世代のため、私を雇用したから受けとれる給付金の申請を会社はしていた。)
もともと面接や入社時に言われていた給与の金額ではなかったことや、給与振り込みは手数料がかかって給与から引かれるとかモロモロ問題があるところなので、これからも会社としてやっていく(社長は来年80歳になるが、50代の息子さんが引き継ぐらしい)ならば、意図的な違反と、無知による違反それぞれ教えてあげてもらえませんか?助言で。と、お願いしたところ、本当にそういうシステムなのか、ただ面倒なのか、仕事を減らしたいからなのか、私には真実がわからないけれども
「当事者の不利益の証拠があってこそ、申告、助言の申請が出来るので、会社に在籍している方々にしてもらわないと」とのことだった。(私も今月中は、在籍者だからこそ、申告に来たのだが。やはり捜査を渋るんだなぁと改めておもった。)
しかし、労基署って窓口の対応時間が市役所やハローワークのような公的な機関と同じなので、それこそ会社を休まないと、来れませんよねと、分かっていらっしゃるであろうその事実を念のためにお伝えしたら、答えに窮していた。
みんな、自分が、生きることで精一杯、なのだ。
しかし、法があっても、意味がない。ならば。こんな世の中。こんな私は。と思うしかなくなる。
甲府労働局の課長さんが、ポリテクセンター(職業訓練センター)で講演された際にお話しできる機会があったので、「法令違反されていても、労働者が泣き寝入りするしかないということを味わっていますが?」とお伝えしたところ「法令は会社を守るという面もあるから、仕方ないのです。よくない会社にもし当たったら、すぐに辞める、それが一番自分を守ることになります。」それしかない。と、穏やかな笑顔で言い切られた。
自殺率の背景にあるのは、法に対して、行政に対して、過度の期待と、間違った認識なのか?それとも、法と職務について、独自の見解を持って自己保身が第一項の行政職員も一役買ってしまっているのか?
いずれにしても、労基署でのやり取りを通して、労働局の課長さんが言っていることが現状の最善かもしれない。と、再度身に染みたが、本当にコレが最善でいいのか?と、私は思った。
「命は大切だ」という漂うようなコトバはあるとしても
「あなたは大切だ」という叫ぶようなコトバはあるだろうか。
命って何なんでしょうね。
私はいのちなのだろうか?こんなふうに踏みにじられることが普通にある私は、命っていうものではないのかもしれない。
そう思うことがあるたびに、チョンミョンソク牧師が昔も今もずっと叫ぶように命を懸けて伝えている姿を想うのだ。
私はチョンミョンソク牧師の伝えるメッセージで「私は大切だ」という感覚を得られた。
どのように生きたら後悔がないのか。
どういう人生が甲斐があるのか。
を、損得なしに教える人はこの世のどこに行っても、チョンミョンソク牧師以外に見たことがない。
死を選ぶしかなくなる山梨県民。
貧困層も、家庭崩壊も、顕著であり、日本の窮状の縮図ともいえる。
その社会で味わいたくないものを味わったからか、私は、私を生かしたモノを伝えて生きたいと思っている。
もし、信仰について、生死の目的について、知らなければ私はとうの昔に、この世にいない。
そう断言できる。
死を選ぶよりも、生きることを選べる。
そういう世の中のほうが、いいはず。
より多くの人が、生きていてよかった。生きているのが嬉しいって思えるような社会。
それは、絵空事だなと思う自分が正直いる。
それでも、私よりももっとひどく辛い想いをしながら生きている方が、相も変わらずこの世の地獄で「天国の人生を生きて、天国へ行こう」と言ってどうしたらいいのかを説いているのだから、学んで、努力してみる価値があるはずだ。
どうやったらこの世を天国に作れるのか、私は知りたい。