自分と関係がないと思う冤罪。
しかし、冤罪がどうして起きるのか、知ったら、そう思えなくなった。

日本と諸外国で法制度が違うといえども、驚くべきことにどの国も「有罪率が90%以上」という現状がある。
統計によると4%~8%は冤罪の可能性があるとまで言われている。

日本で87人の死刑囚のうち7~8人が最後まで無実を訴えていたという話もある。
つまり、検察が優秀だから。という一言で済まされない。

冤罪だと明らかになった事件を知れば知るほど、知った分だけ、他人事ではなく、
自分にも、もしかしたら起こり得る恐ろしいものだわかった。

冤罪はどこか遠い所で起きている。
そんな認識が大間違いだった。

冤罪について、知ろうとしないことが
冤罪を作ってしまう。

冤罪について、知れば知るほどあってはならないことだと痛感した。

冤罪とは
「罪がないのに罰せられること。無実の罪。ぬれぎぬ。」goo辞書より

 

実際の事例・事件

徳島ラジオ商殺し事件:あらましについてはこちらを参照下さい。⇒日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

5度目の再審請求の時点で不提出記録と実況見分調書に6枚の写真が不足しているまま証拠とされ有罪判決が出ていることが分かった。

有罪判決の確定となったのは、証言をした2人がいたからだが、どちらも偽証だったと後に申し出ている。
しかし無罪となったのは被告富士茂子さんが亡くなってからご兄弟が第六再審請求をしてからだった。
正しい証拠が使われないまま、また実際と合わない部分が多いのに嘘の証言で有罪とされ刑期に服していたのだ。

「徳島ラジオ商殺し事件は、犯罪被害者の妻に対して、検察が不当な嫌疑に基づく「見込み捜査」を展開して起訴し、しかも、それをチェックすべき裁判所がその期待されている機能を十分に果たすことなく、理由にならないような理由をつけて茂子さんに有事を言い渡したというケースである。」

裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著

岩波新書より引用

 

どのくらいありえない判断なのか?というと・・・

徳島ラジオ商殺し事件の被害者は、元海軍軍人歴がある男性。
有罪となった富士茂子さんは、150㎝以下の華奢な体格。
被害者は腹部、胸部など合計11個の傷を負っているのに対して、茂子さんは犯人とすれ違った時に負ったという左わき腹の擦過傷のみ。手や掌などまったく傷も防御創も負っていない。

このように体格のまるで違う夫婦が格闘し、夫だけが身に11創の傷を負って殺害され、殺したはずの妻にはさしたる創傷がなく、事件後、警察官の事情聴取に応じているなどという事は、およそ経験則上考えられない。
まさに、ありえないことなのである。

裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著 岩波新書より引用

どうして、そのような判決がなされたのだろうか?
徳島ラジオ商殺し事件の裁判を担当された秋山氏は後に弁護士になって冤罪を防ぐために活動をされている。

冤罪がなぜ起きるのか、それは
裁判員の判断に誤りがあったこと、また検察の捜査の仕方、証拠の隠ぺい・ねつ造など、
つまり正しくあるべき「裁判所」「検察」が正しく機能していないことが原因なのだ。

死刑判決が確定した後、無実を主張し再審無罪となった4大冤罪事件とその共通点

免田事件:無実を勝ち取るのに34年と6ヶ月を要し、出所した時には、頭髪に白いものがまじる57歳になっていた。
冤罪の原因:自白の強要・ずさんな捜査
「公判で免田がアリバイを主張して以降の補充捜査で、その主張に添う証拠が出ているのに、十分な解明をしなかった」と、当時の検察官の対応を厳しく批判。「公判途中の補充捜査において被告人の犯行が疑わしいような証拠が出た場合には、いっそう精緻(せいち)な捜査を遂げて真相を解明し、けっして無辜(むこ)の者を罰することが起こらないように、公正な態度で事に当たるべきである」とした。日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より引用

財田川事件:無罪獲得まで、33年11ヶ月を要した。
冤罪の原因:証拠のねつ造
被告人が書いたとされた5通の手記の文字遣いや筆跡などから、捜査官が偽造したものではないかと疑いをもち、自白調書の不自然な変遷や客観証拠との矛盾など多数の問題点に気づいて、再審請求審が行なわれた。
被告人の最終学歴は小学校であった。漢字は書けないのに、裁判に提出された手記には漢字を多用されており、後日警察によって捏造した可能性が極めて高い。
詳しくは、こちら⇒日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

島田事件:逮捕から34年経て、無罪が確定。
冤罪の原因:自白の強要・見込み捜査
「早朝から深夜まで追及され、脅かされたり、頭を小突かれたり、首筋を押さえつけられたりして取調べを受けた。再逮捕後はその調べは更にエスカレート。供述内容にくいちがいがあることがわかると、その度毎に捜査結果に合わせて訂正された新しい供述調書が創られ、“自白”の内容は変遷し目撃証言の中には、浮浪者風の男とするものと、髪の毛を分けた勤め人風の男とするものがありましたが赤堀さんが逮捕され、さらに公判になると、これらの目撃証言は、次第に赤堀さんの姿に似たものとなっていきました。冤罪(誤判)防止コムより引用」

松山事件:死刑囚として28年7ヶ月にも及ぶ獄中生活。
冤罪の原因:証拠のねつ造・自白を巧みに誘導。

この4大事件の弁護人だった方々が運営されているサイト
冤罪(誤判)防止コム」にこの事件の共通点がまとめられている。

誤判(冤罪)の原因は何か
これらの事件で、誤った裁判が行われた原因には、共通点があります。

1 警察官や検察官が、被告人を長期に勾留したり、長時間の取り調べを行ったり、様々な方法で自白を強要し、ついに自分が犯人であることを認める「虚偽の自白」に追い込みました。

2 さらに、検察官は「誤った鑑定」を裁判に提出しました。

3 加えて、警察や検察官は、被告人の無罪を裏付ける被告人に有利な証拠を隠して、裁判には出しませんでした

4 裁判所は、このような「虚偽の自白」や「誤った鑑定」を信用し、法廷での「私は犯人ではありません。」という被告人の叫びを信用せず、死刑判決を下しました。

これらは、過去の、昔のことではなく、例えば、氷見事件(富山県)、志布志事件(鹿児島県)、足利事件(栃木県)など多くの事件において、捜査、起訴、裁判で、今でも同じような誤りを犯しています。

「冤罪(誤判)防止コム」

富山の強姦事件で実刑判決を受け、服役後に無罪が確定した富山事件(2007年3月5日 朝日新聞 朝刊)
「お前の姉さんが、間違いないから、どうにでもしてくれと言っている」という嘘の誘導取調べによって、見捨てられたような気持ちになり、やっていない犯罪を認めるに至ったそうだ。
「がんばれと誰かが言い続けてくれたら、頑張ることができたかもしれない。否認しても信じてもらえない。
何を言っても通用しないと思い込まされてしまった。」と冤罪犠牲者は語る。

冤罪を生み出す原因-検察のねつ造・非人道的な取り調べ

被疑者の記憶捏造
⇒逮捕から4半世紀後に無実が晴れたいわゆる甲山事件。
兵庫県の知的障害者施設で起こった溺死事件。

考える能力が麻痺するそんな精神状態の中、アリバイがないと捜査官から責められ、当日の行動を分刻みで説明するよう求められる。しかし、記憶の隙間は埋められない。思い出そうとして努力するうちに、自分の記憶に自信を無くすようになりそして、逮捕一週間後には、自分の記憶よりも他人の言葉を信じるようになり、その導きに沿った自白をした。

勾留期限いっぱいの、23日間の拘留と過酷な取り調べの後、山田さんは釈放された。つまり起訴はされなかった。
山田さんを証拠不十分として釈放した検察は、「犯行に及ぶ動機がない」ことを筆頭に、次のように釈明している。「検事に対しては否認を続けた。警察で一時、犯行を認めるような供述をしたが、動機、殺害方法などについて、完全に筋道の通った供述をしたわけではなく、これは自白とは言えない」との判断を下した。
これが、山田さんの取り調べと、「自白」虚偽性のすべてを物語っているのである。

「冤罪甲山事件」より引用

事件のあらまし・顛末はこちら⇒冤罪甲山事件

真犯人捜す捜査ではなく、めぼしい人達を犯人に仕立てるような捜査だった。
そのため、実際の真犯人は捕まえられないままになっている。
冤罪事件のほとんどが同じ原因だ。
真犯人を捜査できず、実際の犯人は捕まえられずにいる。。。

拷問
1930年までアメリカ合衆国では他の多くの国と同様、自白させる目的で拷問があからさまに行われていた。
最近もキューバ・グアンタナモにある米軍基地の監獄で、テロ被疑者に対して水攻めなどの厳しい取り調べが行われた。
しかし、豪御門をすると、無実の者でも嘘の自白をするし下手をすると精神を破壊し、殺してしまう。
そこで、身体を苦しめる代わりに心理的抑圧状態に閉じ込めて、同じ効果を得る工夫が次第に練り上げられた。
自白する以外にはどんな逃げ道もない。自白する方が得策だと思わせるのが近代的取り調べ術の基本原則だ。

取調べ
部屋の奥に閉じ込めて常に緊張感を持続させなければならない。椅子は狭くて座り心地が悪く、長く座っていると腰や尻が痛くなるものが好ましい。音の刺激を少なくし、刑事が取り調べる声と、机などを叩く音だけが響くよう配慮する。照明も不安感を煽る色と暗さが望ましい。空調設備も劣悪な方がいいよい。いるだけで気分が悪くなる場所に長時間閉じ込められると、不安や疲労が増すからだ。時間経過が分からないように時計は外す。時間間隔を失い取り調べが永久に続く錯覚を起こさせる必要がある。

[人が人を裁くということ小坂井敏晶 岩波新書]より引用

検察の不祥事について日本ではあまり取沙汰されていないが、冤罪と認められた事件において検察の証拠をねつ造または、隠ぺい、改ざんが見受けられる。

また、検察だけの問題だけでなく裁判所の腐敗の告発も出ている現状がある。

元裁判官による告発

「<疑わしきは被告人の利益に>がなされていない」

「疑わしきは被告人の利益に」とは・・・
検察官が出した証拠と被告人側が出した証拠とを全部調べても、被告人が犯人か犯人でないかがはっきりしない場合。
無実な人を誤って罪を犯したと判断することが無いように、被告人が犯人であるとことがはっきり証明されない限りは無罪の判決をする考え方を指す。
被告人が犯人であるかどうかが疑わしい場合には、
有罪ではなく、被告人の利益になる無罪の判断をしなければならないという意味。

なぜ有罪判決が多いのか?
裁判所・司法世界の闇について元裁判官の共通的な告発本が近年出版されている
今回は以下の三冊をもとにまとめてみた。

「絶望の裁判所 瀬木比呂志著 講談社現代新書」
「裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著 岩波新書」
「狂った裁判官 井上薫著 幻冬舎新書」

『紛争の本質を考えようなどというタイプはいなくなりました。
ごく形式的に手抜きで事件処理をする判事ばかりです。』
『判決も和解も事なかれ主義でいい加減だし、キチンとかんがえていない。争点整理のときの言葉から[訴訟]記録もろくによんじゃないことがわかるしなぁ。いやいや、裁判所はお先真っ暗だよ』など
といった感想にはよく出会うことがある。
つまり、全体的にみて、モラルと士気の低下傾向が否めないということである。


「絶望の裁判所 瀬木比呂志著 講談社現代新書」より引用

 

「問題になっている事件の判決を繰り返し読んでみても、裁判官がどうして有罪に踏み切ったのかがよく分からない場合がある。事件記録を読む前に判決を読んだだけでも、次々と疑問点が出てくるのに、それらの疑問が判決の中で合理的に解明されないままに有罪判決になっているのである。裁判官が大変な苦労をして、言い訳がましく無理矢理、有罪判決を書いている印象すら受ける判決が結構ある有罪にしないと裁判官が人事上、不利に扱われることがあるのではないかと思われるほどである。」

「裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著 岩波新書」より引用

この方は疑いをかけているが、
ハッキリと左遷を避けるためだと言ってる方もいる。

「自己の心証では無罪となる事件であっても、
万が一にでも人事上の不利益を被る可能性があると考えた場合、
その裁判官は、
不利益を避けるために、やむなく有罪の判決を書くことになりがちです。」

「狂った裁判官 井上薫著 幻冬舎新書」より引用

裁判所の腐敗を増長させる原因。

裁判官は全国を転勤するという背景を持ちながら、ヒエラルキーのキャリアシステムにより
常に出世することが目的になってしまっており、それが自己保身・出世欲の温床となると指摘されている。

・報復や見せしめを行う人事による統制。

事務局が望ましいと考える方向と異なった判決や論文を書いた者など事務総局の気に入らない者については、所長になる時期を遅らせ後輩の後に赴任させることによって屈辱をかみしめさせ、あるいは所長にすらしないといった形で、いたぶり、かつ見せしめにすることが可能である。さらに地家裁の所長たちについてさえ、当局の気に入らないものについては、本来なら次には東京高裁の裁判長にとどめておくといった形でやはりいたぶり人事が出来る。これは、本人にとってはかなりのダメージになる。プライドも傷つくし、単身赴任も長くなるからである。こうした人事について恐ろしいのは、前記のような報復や見せしめが何を根拠に行なわれるかも、いつ行われるかもわからないということである。裁判官たちは、常に、ヒラメのようにそちらの方向ばかりを伺いながら裁判をすることになる。

「絶望の裁判所 瀬木比呂志著 講談社現代新書」

 

・常に処理事件数を発表される。

どのくらいの事件を受け持っているか?というと一人で300件くらいは担当するらしい。
そして毎月、どのくらい処理できたのか成績発表されるそうだ。
新受研修より既済件数が多い状態を黒字と呼び、未済の件数が増加すると「事件をためた」とされ赤字と呼ぶ。
結果は人事評価にマイナスで反映され肩身が狭くなる。

裁判官は、成績表をもらうために、他人と比べ一喜一憂するのが普通です。
ある裁判官が赤字続きであるのを見ては「○○さんも大変だねー」と言いつつ、
自分はそうではないことにホッとすると同時に、密な優越感に浸るのです。

「狂った裁判官 井上薫著 幻冬舎新書」より引用

裁判がいかに「裁判官による」のかが分かる判例

小学5年生の男の子が蹴ったボールが校庭を飛び越し、道路にでてしまったそのボールをバイクがよけようとして転倒。運転していた方はご高齢だったこともり、その怪我による長期にわたる入院の中、死亡してしまった事件。

起訴内容:校庭でサッカーボールを蹴っていたらこのような事故が起こるのは想定内である。よって、少年は、死亡させた責任を取って、遺族らに約5000万円を支払う必要がある。
少年の両親はサッカーボールが校庭からはみ出ることがないように監督・注意が必要だった。遺族らに約5000万円を支払うべきだ。

この訴え、どう思われただろうか?

わたしはこの事件をたまたま新聞で知っていたのだが、判決に驚いて校庭でボール遊びなど出来ないと思った。

1審と2審では「訴えのとおり、サッカーボールも蹴り方によっては事故が発生することは予想できる。
両親は少年を監督すべき立場にあったのだから、その責任を取って約15000万を支払う事」という判決をだしたのだ。

少年がサッカーボールを蹴っていたら、ボールが飛出しバイクなどにぶつかって事故が起こるのは予測でき、
少年の両親はそのようなことが起こらないように少年を監督する義務がある。そう裁判所は判断したのだが、
この判決は妥当だろうか?

「裁判官・非常識な判決48選 著者/間川清 幻冬舎新書」ではこのように述べられている。

「普通に考えて、自分の子供が学校でサッカーボールを蹴って人が死ぬというのは、予想が出来るでしょうか?
もちろん道路の通行者にとって危険なのは確かですが、その時、たまたま高齢者がバイクに乗っていて転倒しただけで両親に莫大な損害賠償義務が発生するのは、やはり納得できるものではありません。
また、誰かに責任があるとして、学校側の責任が言及されていないのも疑問です。小学校であれば十分な判断能力がない児童が力加減を間違えて、ボールが校庭に飛び出してしまうことが当然予想できるためネットなど設置されていなかったのでしょうか?」

出典元:「裁判官・非常識な判決48選 著者/間川清 幻冬舎新書」

さすが弁護士さんだけあって、冷静に見られている。

この裁判は上告されて最高裁までに進み、最高裁の判決では「少年の責任を認めない」
つまり賠償金は支払う義務はないという判決に翻っている。

最高裁では「フリーキックの練習は普通に考えると危険な行為ではない。直接そばで監督している場合以外は
人に当たらないようにしなさい」などの一般的な注意しかできない。
そうである以上、たまたま事故が起こったとしても、その事故を予想することができなかったのだから責任を負わない」と判断された。

著書の中で間川さんは1審2審がなぜ責任があると認める判決をしたのかをこう推測されている。

「恐らく男性が死亡した、という結果を重視し、「重大な結果が発生したのだから、誰かがその責任を負うべきだ」と考えたのでないでしょうか。確かに、人が死亡したという結果は重大ですが、その責任を誰かに負わせてよいか?という点はまた別の問題です。1審2審の裁判官はその視点が欠けていたのかもしれません」

なぜ裁判官によって判決が変わるのか?


事件の捉え方
法律の解釈など裁判官によりばらつきが出る
そうだ。
裁判官の能力が高ければいいが、そうでない場合は「池ポチャ裁判」と弁護士の間で称されることもあるそうだ。

また、毎月数百件の案件を抱えるため、より速く処理することが求められている。
その文書を読解し、分析し、判断する。この一連の流れを1日2件は処理するように進めていかないと、どんどん事件がたまって行くことになるので、非常に多忙だそうだ。
忙しいからという言葉で、治めてしまうのはいけないが
人間の判断、思考は一部分的情報から思い込みなどの偏った考えで判断してしまうことがあるため、
忙しい中でそういったことが起きることが否めないという。
そして、裁判官自身がヒエラルキー的構造に閉じ込められてストレスを受けていることにより、
当事者の心情を察することなどの想像力が麻痺してしまう事態が起きているのでは?という指摘が元裁判官からある。

本来裁判官などという職業は精神的な負担が大きすぎ荷が重すぎるのである。
たとえば法科大学院の模擬裁判の授業における裁判官役の学生の中にすら、急にテンションが上がって切り口上になる人が何人も出てくるのを見るだけでも、そのことはよく分かる。それに加えて、キャリアシステムが大きな精神的圧迫を加えてくるわけであるから、もともとが坊ちゃん、嬢ちゃんの優等生だった若手判事補たちは歪んでいったり、その欠点が異常に増幅されて行ったりすることになる。10数年も経過する頃にはかなりの奇人変人になっているのを見る時ほど、裁判官をやっていてがっかりさせられることはない。

「絶望の裁判所 瀬木比呂志著 講談社現代新書」

しかし、それ以上に、「判決が左右される理由」として
司法の独立性が固持されていないという事実があるそうだ。

憲法76条3項:すべての裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行なひ、この憲法および法律のみ拘束される

日本国憲法にはこのように「裁判官の独立の原則」として
裁判官に対しては他のいかなる権力にも、意見にも、左右されず独立して裁判の職務にあたるように憲法で定められている。
つまり裁判官は法律・法令にだけ拘束されると言えるが、法令にもとづく裁判をすることが義務なのだ。
だから裁判官の独立の原則を脅かすような言動も取ってはいけないものとなっている。
それでも裁判所長による裁判干渉があるという。

わたしは所長からの指図を無視していたところ、H17年夏、同所長から指図に従わないので人事上減点評価とし、来春の判事再任は無理であると告知されました。

「狂った裁判官 井上薫著 幻冬舎新書」より引用

冤罪は裁判所と検察だけの問題ではない事実。

元死刑囚の四大冤罪事件のもう一つの共通点について、このように語られている

「これらの事件はほぼ共通して、報道機関による「有罪判決」に毒され、
被告人に対して予断・偏見を抱いた裁判官が判決を誤った事例である。」

「裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著 岩波新書」より引用

いったん擦り込まれてしまった、印象を拭うことが難しい。
実際はそうではないのに、メディアの報道の仕方によって犯人として扱われてしまっていた。

松本サリン事件の河野さんが近年で思い浮ぶ被害者だ。
1994 年6月27日、長野県松本市で発生した『松本サリン事件』。
被害は死者8人、重軽傷者660人。
事件直後、被害者ながら事件への関与を疑われ“犯人”扱いされた河野義行さんだ。

警察は執拗に取り調べを行い、マスコミも連日のように河野さんへの疑いを記事にした。

「入院中は大勢の記者が病院に押しかけ、退院後は毎日自宅を取り囲みました。取材依頼の電話や嫌がらせの電話、脅迫状まで送られパニック状態でした」週刊女性PRIMEより引用

河野さんはサリンの被害にも遭いながら、さらにマスコミによって犯人扱いを受けた被害者だ。
そのようにメディアによる犯罪者のレッテルを張られる被害。
その影響について「キング・オブ・ポップ」のマイケルジャクソンの事件を通して詳しく見ていきたいと思う。

児童虐待をされていたと訴えられたマイケルジャクソン。
その真相について日本のファンサイトにまとめられている。

マイケル・ジャクソンの潔白を証しているファンサイト⇒ Michael Jackson in clover days

このサイトでマイケル・ジャクソン(Michael Jackson)1993年の「児童性的虐待疑惑」マイケル・ジャクソンの莫大な資産を目当てにした裁判がたくさんあったことがわかる。

ポイントとして着目したい点は
児童への性的虐待で起訴されたが裁判前に示談・和解をしたこの結果をメディアは、マイケル·ジャクソンが「自ら性犯罪者であることを自認した」と報道した。

示談とは「裁判外で当事者間に成立した和解契約のことをいう」とコトバンクにあるが
つまり、「罪を認めて賠償する」ことではない。

提示された示談金を支払うのが、解決として速いというマイケルの顧問弁護士の勧めに従ったことが
「罪を認めた」という報道の原因になってしまっている。

ちなみにマイケル・ジャクソン死後、起訴をしていた少年は
2009年6月米タブロイド紙に「僕は父に嘘を言わされた。マイケルごめんなさい。」告白をし
少年の父親はその後、拳銃自殺している。

マイケル・ジャクソンの熱狂的なファンの方で
「ファンとして真実を知りたい、とくに少年虐待疑惑訴訟について知りたい。事実にたとえ打ちのめされることがあるとしても。」その一心で検証し、93年と05年の2つの少年虐待疑惑訴訟の共通点を見出した。

長い間、英語の原文から一つ一つ丹念に様々な資料を読み続け例えその結果、『真相はあまりにも空虚』でぼくはびっくりしました。とあるきっかけでマイケルと家族ぐるみで仲良くなり、マイケルは彼ら家族と過ごすことを楽しんだ。マイケルは物心両面にわたって求めるものを分け与えた。しかしある瞬間、その家族の要求がエスカレートすることにマイケルが疑念を抱き、関係を絶つ。すると、それに絶望し腹を立てた親が弁護士に相談。子供に偽証をさせ、マイケルの社会的地位や、人間としての尊厳、音楽家としての人生、そして彼らの一番の目的であるお金を奪うことを画策する。そしてメディアが、表面だけを追いかけて大騒ぎする

出典元:「新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書 西寺郷太/著 講談社現代新書」

たしかに、示談金を支払うこと=「罪を認めた」と報道していた記憶が極東の田舎在住の私にもある。
そのように、裁判とは訴える人と訴えられる人とそれを裁く人の三角関係だけでなく、
裁判を報じる人と、情報を受ける人が実は裁判の結果に影響をもたらしているのだ。

わたしもこのマイケル・ジャクソンの訴訟事件の内容を調べなければ、「マイケルジャクソンは児童虐待をした加害者だ」という認識のままだっただろうと思う。

日本でもメディアと情報の受け取り手の社会が裁判結果を左右しているわかり易い事例があるので、ぜひ確認して頂きたい。マスコミの報道が及ぼす影響力の甚大さ。それがどれほどのものか、実感する事例だ。

1983年に実際に起きた有名な「隣人訴訟事件」
同じ幼稚園に通う子供がおり、家族ぐるみで親しく付き合っていたAさんとBさん。
ある日買い物に出かけようとしたが、子供たちはまだ遊びたいといったため、Bさんに頼んでAさんは買い物へ
しかし、Bさんが掃除などをしている間に子供達が家の裏にあった溜池で遊んでいたが、Aさんの子供は溺死してしまった。
Aさん夫婦はBさん夫婦や国を相手取って損害賠償の訴えを起こした。

第一審の判決内容
⇒市、県、国、建設業者に対する訴えは退けられ、Bさん夫婦には不注意がったと認められ損害賠償の支払いが命じられたが、落ち度が軽いという理由で損害額は提示された金額の3割の約527万円の支払いを命じた。

 

——この判決を新聞社がどのように報じたか?

「隣人の好意に辛い裁き」「親切があだになるとは」など、被告であるBさん夫婦に同情を示すものだった。
このような報道の影響を受けてAさんの家には無言電話や匿名の手紙が殺到。
数日間に600本以上の電話がかかってきただけでなく、Aさんの仕事の取引先から仕事を断られること起こり、訴えそのものを取り下げる結果になった。

この事件を通して「報道の情報の発信者と受け手の判断と行動」が裁判の当事者に大きな影響力を与えることが、感じられるのではないだろうか。

裁判に対して不服があるならば、裁判所を批判するべきなのに
訴えた原告の夫婦を責める行為をした人達には「裁判や法について大きな誤解があるのではないか?」と専門家は語っている。

「隣人訴訟事件の判決に不満を持った人達が、原告に対する個人攻撃に走って、判決を批判しなかったのは、判決は裁判官が法律という基準を当てはめた結論だから、どうしようもないものだと考えていたからではないでしょうか。この原告を非難した人達の行動には、法や裁判に対する無力感が表れているように、私は思います。
無力感というのは、私たち裁判を受ける立場の者は裁判官が示した法をただ受け入れるしかないという感じ方です。
しかし、民法という法律も、私たちの代表が議会で決めたものですから、私たちはその中身がおかしいと思えば、変える様に主張することができます。
ですから、判決に不満な人は、裁判官の採用した法律の解釈または、そもそも民法の条文を変えるべきだと、主張することができたし、そうすべきでした。法律の解釈や、法律の改正について、いろいろな人がそれぞれの意見を言い合うことが大事です。その中で、多くの人を納得させる力のある主張が生き残って、裁判で適用され、あるいは法律として議会で認められるそうやって法は作られていきます。

「新版 わたしたちと裁判 後藤明著 岩波ジュニア新書」より引用」

裁判は絶対的なものではなく、裁判官によって判決が変わることが普通に起っていることに驚いたが、
もっと意外だったのは、裁判の結果が社会に影響を与えることもあれば
「隣人訴訟事件」のように社会の声(批判)によって裁判自体が変わる場合もあることだ。

この「隣人訴訟事件」は裁判の当事者に対しての批判で原告が訴訟を取り下げるに至った後、
報道機関は、「嫌がらせは暴力」「裁判を受ける権利あり」「判決は通説に沿った妥当なもの」と表現が変わったそうだ。そして、それからは被告人に同情をする声が寄せれるようになったという。

報道がどれほど影響を与えるのか、
情報を受け取る側も鵜呑みにしてしまうのか、恐ろしいと思うのと同時に
裁判について、それぞれの立場を正しく知るならば反応も行動も変わるということだろうかと思った。
私自身、今回調べることで、裁判についての無知のウロコが目に入っていたと痛感している。

「丸坊主を拒んだ」小学生が起こした裁判を通して「裁判」を知る。


1993年10月 神戸地方裁判所に小野市の小学五年生が両親を代理人として訴状を提出
裁判で訴えられ被告となったのは小野市立小野中学校の校長と小野市の教育委員会。
少年は進学予定である小野中学の規則が憲法違反だと訴訟を起こした。

「男子生徒は丸刈り(指の間から髪が出ないくらいに刈ること)」に対して、日本国憲法13条が保障する自由と幸福を追求する権利を侵すので無効のはずだと主張し訴えたのだ。

憲法13条とは「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めている条文。

また、丸刈りのほかに「生徒心得」にある「外出の時には制服化体操服を着るように」という規則も無効だと訴えた。
それに対し、裁判所はどのように判断をしたか?というと・・・

「訴えを却下する」

原告の少年の言い分を認めなかった。

どういう結論か?というと
「この事件がもともと行政事件として裁判をするのにふさわしくないものだ」というのが裁判所の判断だった

<判決の主な3つ理由>
・中学校の「生徒心得」は多くの生徒たちに同じように適用される規則であり、直接一人ひとりの生徒の権利を制限するものではないから、行政事件として裁判所がその効力を判断するのは、ふわさしくない。
⇒行政訴訟は規則の善し悪しを判断するためのものでなく、原告が実際に不当に権利を制限されているかどうかを判断するためのものだという考え方
・学校は教育の目的の為に規則を定めることができる。裁判所がそこに口をだすべきでない。
・原告はまだ小学生で、この中学に入学していないのだから、実際に自由を制約されているわけではない。だから、裁判所に助けを求める資格がない。

と、訴えを「門前払い」にされたのだった。

がやはり、この結果に納得できなかった原告の少年は、
門前払いについて「裁判を受ける権利を保障した憲法32条に反する」と主張を添えながら高等裁判所へ控訴した。

その判決の結論は「控訴棄却」
つまり、神戸地方裁判所の判決は正しいとしたのだ。

ただし、ちょっとだけ違った点は「生徒心得に丸刈りが決められていても、それは法律上生徒に丸刈りを強制する意味は持っていない」と説明あり、法律上は強制ではないと判決は認めているような形になっていた。
しかし、少年はさらに不服を申し立てをし、上告。
最高裁判所に送られた。その結果は・・・・

「上告棄却」
訴えを退けられてしまった。

しかし、全く無駄ではなかった。

この判決によれば、校則あるとおりにみんな丸刈りにしなければならないという事は法律上は言えない。という事がはっきりし校則を守るべきかどうか、またそもそもその校則がある理由は何なのかを社会的に多くの人が関心を持ったり考えるようになる機会になったのだ。

「本当に」それでよいのか?と改めて考え直すきっかけをこの裁判は作ったと思います。
じつはこの裁判が起こる前に、1983年に別の件で同じように中学校生徒が起こした裁判がありましたが、裁判に時間がかかり原告が中学を卒業してしまったので訴えに意味がないと却下されたのでした。
この結果を知っていたから、小学生の時点で裁判を起こしたのだと思われます。
結論、棄却でしたが、この訴えが起こされた直後の1993年11月には同じ兵庫県内の八千代町立八千代中学校で、生徒会による「生徒心得」の見直しが行われ、結果、丸刈りの規則が廃止されました。
この裁判からの後の出来事を見ると、裁判が論争のきっかけとなり、それがまた新しい裁判を生みだすという循環が、世の中を動かしていくように思えます。

「新版 わたしたちと裁判 後藤明著 岩波ジュニア新書」より引用

「裁判」は自分にとっての権利なのだ
そして、裁判所が訴えとしてして扱わないと棄却したとしても、その事例を通して
社会が動いてルールが変わることもあることがこの事例を通して学べた。

つまり裁判で扱われる事件も私たちは何等か自分の人生につながることがあると思って捉える必要があると言える。
「新版 わたしたちと裁判 後藤明著 岩波ジュニア新書」では「法とは、常に古いものであり法を作っていくのは私たち社会にいる一人ひとりが意識して関わってこそだ」と説かれていた。

法とは「自分たちが生きやすくなる=保護されること」

このことをどれだけの人が知っているだろうか。
司法改革は2009年から様々展開されているとのことだが、私がヒエラルキーの最下層にいるからなのか、学生でないからなのか、今回調べて初めて知ったことが多い。
民事裁判と刑事裁判の違いはあるが、あまりにも無知だったので少しでも知ることによって目が覚めるような思いを味わった。

民事裁判と刑事裁判の違いについては弁護士ドットコムでまとめられているのでお勧めする。

冤罪被害の深刻さ・・・

長年にわたる懸命な救援活動の結果
再審が開始されてついに無罪を勝ち取っているがそれぞれ、20年以上かかっている。
拘束された時間はどうやっても戻ってこない。
そして、人権を無視した取り調べや拘禁で精神を病んでいる方も少なくない。

袴田事件の袴田巖さんの獄中生活は47年7ヶ月に及び、死刑囚となってから緊張の連続の中、「自分はハワイの大王だ」「最高裁判所裁判長だ」と話すような拘禁反応(精神障害)が生じている。

2014年3月27日、再審開始決定が静岡地裁で出されたが、静岡地検が抗告したため、再審開始は先延ばしという現状になっている。
有罪とするにはあまりにも不可思議な証拠の変遷と検察の抗告に茫然とするしかない。

【袴田事件】48年ぶり釈放の袴田さん、再び死刑囚として収監の恐れ…検察の即時抗告で
「存在自体が強烈なメッセージ」釈放された死刑囚・袴田巌さんを描くドキュメンタリー」弁護士ドットコムNEWS

冒頭で紹介した徳島ラジオ商殺人事件の被告人富士茂子さんは、亡くなる前にこう伝えていたそうだ。

「裁判長さん。私は無実です。よろしくお願いします。」うわごとのように繰り返していた。

この何度となく裁判所に裏切られ続けた婦人が最後まで裁判所に期待し、無実を叫び続けたのである。

無実の人は最後まで裁判所に期待し続けるしかない。

<裁判所が信じられない社会>であってはなるまい。

[裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著 岩波新書]より引用

最近チョンミョンソク牧師が主日の説教で
「神様の法を守ってこそ、命が守られ平和が訪れる」と説いていた。
たしかに、裁判についてハッキリ知ったら「法と裁判の権利」を正しく分かって使わなければ!と思った。
知る事・考える事の大切さをしみじみ感じる。

メディアの情報をうのみにしない、そのような自分作りも必要だと思う。
裁判官の腐敗を告発されている方々は一様に「国民に必ず影響がでる」と説かれていたが、
誰かの痛みは誰かで終わらず、自分につながっているはずだ。
人間には社会をよりよくしたいという思いが備わっていると信じたい。
裁判自体に正しい認識を持つことで私自身には変化があった。
裁判=正しい判断が前提
そう思っていたし、法によって守られるべき権利が、裁判官や検察によって権利が守られないことも衝撃的に知るようになった。

冤罪の起きる原因をまとめると・・・・

検察の自白の強要・証拠のねつ造・裁判官の誤判。
正しくあるべき機関が、そうでない
あってはならないことが起きている事実だけでなく、センセーショナルに報道をするメディア・マスコミと
その情報をうのみにしつつ反応する当事者を取り巻く民衆という社会、
私たち一人ひとりも関わっているということを忘れてはならない。

冤罪について調べるきっかけとなったのはチョンミョンソク牧師の裁判だった。
一人の人として、こんなおかしいことがあっていいのだろうか。
それを心底、身近に感じたのだ。

 

チョンミョンソク牧師が無実だと思う理由。

中国で強姦をしたと、性犯罪者として訴えられた事件で服役中のチョンミョンソク牧師。

しかし、中国での取り調べで10か月も拘留されたが「罪が認められない。」と釈放されたチョンミョンソク牧師。

2007年5月、中国の公安に婦女子性的暴行の嫌疑で逮捕されたと知らされた
チョン・ミョンソク牧師が2008年2月、無事に韓国に送還されたことも、
(判決が)疑わしい理由のひとつだ。
中国で強姦犯は麻薬犯と等しく扱われ、国籍にかかわらず厳しく処罰することで知られている。
中国捜査機関で、チョン・ミョンソク牧師が強姦犯であるという嫌疑があったなら、
やすやすと韓国に帰しただろうかという疑問が残る。
しかし、チョン・ミョンソク牧師に対する判決で、核心的な争点であった中国での捜査資料は、残念なことに韓国法廷に提出されることはないまま、終結した。

摂理の真実より引用

「中国での捜査資料は、残念なことに韓国法廷に提出されることはないまま、終結した。」
とあるが、これはもし提出したら韓国などから人道的に訴えられるからかもしれない、そういう恐れがあったため提出がなかったのではないかと私は思う。

「調査」とは一体どのようなものなのか、中国における取り調べの現状を伺えるニュースをいくつかご紹介したい。

「死ぬよりつらい思いをさせてやる」。警官が敵意むき出しの目ですごむ。
北京の弁護士、余文生さん(49)は3年前に受けた中国当局の厳しい取り調べが脳裏に焼き付いている。
取り調べを受けた北京市第1看守所(拘置所)では鉄の椅子に座らされ、後ろ手に手錠をかけられた。
1日13~18時間、その姿勢を続けると「死んだ方がましなくらい痛い」。
手錠を外すと、手首は倍の太さに腫れ上がっていた。
拘束は99日間に上り、最後は身に覚えのない罪を認めるよう迫られた。
あたかも自白したように、「私は過ちを犯した」などというせりふを暗唱させられ、その姿を動画撮影された。
起訴はされずに釈放となったが、長期の取り調べで腹膜が傷つき、開腹手術を受けなければならなかった。

「拷問、監視で狭まる中国の自由 弁護士、後ろ手に手錠18時間 ネットで官公庁批判拘束も」
西日本新聞より引用

 

40時間以上休みなしで取り調べを受けた。
その後も1週間は、ほぼ連日20時間ほど取り調べられ、睡眠時間は2時間ほどだった。
拷問や虐待の態様は様々だ。
肉体的には、足が宙に浮く状態でイスに座らされ、下半身は腫れてマヒ状態に。
カメラの死角で殴る蹴るの暴行を受けたり、周りから一斉にたばこの煙を吹き付けられたり。
水もろくにもらえず、怒鳴られ、脅されていた。
「罪を認めなければ、大学で働く妻や友人も苦しめるぞ」といった脅しなど精神的なプレッシャーも受けていた。
謝弁護士は途中、休憩を求めたが認められず、3日目には泣き出すなど精神的におかしくなった。
それでも休ませてもらえないため、当局の要求通りに罪を認める文章を書き、署名した。

40時間休まず聴取、暴行… 中国、人権派弁護士に拷問
朝日新聞DITALより引用

 

[arve url=”https://www.youtube.com/watch?v=Tw5B0zogX2w” /]

△【新唐人2010年8月28日付ニュース】中国の重慶市では、去年の6月から「暴力団一掃運動」が開始。
しかし最近、当局が拷問したことを示す映像が暴露された。
中国の弁護士など50名ほどが、最高検察院にこの真相究明の調査を求めた。
弁護士の朱明勇氏が接見中に隠し撮りした映像には、収容中の樊さんの拷問の痕が映っている。
舌の先が欠けているのは、痛みに耐え切れず噛み切ったためで、手錠の痕も生々しく残っている。

中国の法執行器具とその乱用
警察などの法執行機関が取り調べなど法にもとづき職務を執行する際に使用する器具を供給する中国の製造業は、同国独自の治安維持体制で市民の弾圧が長く続く状況の中で、発展してきた。金属製の拘束椅子など虐待用道具としての性格を持つ中国独特の拷問器具は、国外に販売されることは、ほとんどない。化学刺激物やゴムやプラスチックの弾丸などの鎮圧関連用品は、内外で使用されている。

賈亜輝さんの拷問-
法輪功修練者の賈亜輝(Jia Yahui)さんは、中国の悪名高い労働教養所(最近廃止)に送られ、
2008 年 4 月から翌年 6 月まで拘束されていた。
その際に警官から拷問を受けた辛い体験を、アムネスティに語った。
「3 人の警官が私の顔を覆ってベッドに縛り付け、電気ショックを与えた。
その間、皆無言だった。声を出すと誰かわかるのを恐れたのだろう。
私には誰だかわかったけれど。ショックを与えるのは、小指、腕、脇の下、胸など体の敏感な場所。
腰には 10 秒以上も。さらに内腿や神経に沿って。人間性のかけらもなかった。
楽しんでいたようだった。帰宅後も、皮膚の黒いあざは消えなかった」

「中国における拷問器具取引と弾圧」
アムネスティ・インターナショナル報告書(抄録)2014年9月 より引用

同じ中国人だとしても取り調べはこのように過酷だ。
取り調べの暴行によって亡くなった可能性があると遺族が訴えている事件もあるくらいだ。
チョンミョンソク牧師がどのような調査を受けたのかまだ明確にはなっていない。
ただ、ハッキリわかっているのは「ペンと紙」を取り上げられるような場所だったということだ。

なぜ「ペンと紙」を取り上げるのか?
その場所があまりにも辛くて、ペンや紙を飲み込んで自殺をした人がいたそうだ。
そのため、それ以来そのようになったと聞いている。
ペンと紙を飲み込んで自殺する・・・一体どれほどの場所だろうか。
そのような場所で、簡単な調査があったとは考えにくい。

10か月にわたる厳しい調査を経て、最終的に無罪を確認された後、
中国当局は鄭明析牧師が国内で活動することを許可したが、
鄭明析牧師は韓国に送還されることを選んだ。

摂理の真実より引用

チョンミョンソク牧師が厳しい取り調べを10か月、耐え抜いたことは、本当に奇跡だと言える。
そして、韓国に帰れば裁判になることが明白だったが、帰国を選んだその理由
それは、無実だからこその選択だと思う。

チョンミョンソク先生の判決の不当性の3つのポイント

・証拠がない。
・証言者の内容が前後不一致
・証言者の一人が事実ではない虚偽だったと告白

詳しい内容はこちら⇒摂理の真実

どうして裁判に不当性を感じるのか?⇒性暴力事件の起訴には証拠が必須。
なのに、証拠がない。

有罪率99%の理由は、「有罪になる確率が高い事件しか起訴しないから」という定説がある。
被告人が有罪になる証拠があることが必要だ。とくに性犯罪の場合は証拠が必須となる。
だからこそ、裁判官はこのように言っていた。

二審の韓国高等裁判所の調査時には、裁判官は「このような事件は本来受理されるべきではない。」といった。

摂理の真実より引用

証拠がない場合は、本来受理されないからだ。

 

他方で裁判官は「法律はあらゆる事件に適用されるが、本件にだけは適用しない」とも言った。

摂理の真実より引用

⇒本来、裁判官は法律をもとに裁判をするもの。

では、法律なしに裁判をするという事は「何を持って」裁判をしたのだろうか。

韓国裁判所の審理の過程で、一審の裁判官は告訴側弁護士が証拠書類を提出できないため、
弁護士に対して法廷で弁護士に対してどのように理由を描き、書面を作成するか教示したうえで、鄭明析牧師に対して懲役6年を言い渡した。

⇒証拠書類がなくても可能にする書類作成を裁判官が教えるとは、前代未聞。

このようなめちゃくちゃな有様にやはり韓国内で批判が巻き起こった。

マスコミの激しい批判と鄭牧師の公判のブームが去りつつあった2012年12月。
韓国の有力なニュース雑誌「政経ニュース」が、韓国の司法当局とマスコミの過ちを指摘する特集記事を掲載した。

摂理の真実より引用

正義とは公正とはなんなのか、裁判のあり方を問うためやはり「激しい批判」が起きたのだ。

政経ニュースで掲載された記事内容の一部

「性的暴行を受けたと偽証。検査結果は性的暴行の形跡なし
10年刑判決 “非・常識的だ”マスコミの誤報が火に油を注いだ世論によって、社会的にはすでに犯罪者として烙印を押された状態でチョン・ミョンソク牧師に対する判決がなされたならば、徹底的に、世論の影響から自由な判決が下されたのか再考してみなくてはならない。
100人の泥棒を逃しても、1人の無念な人を作るべきではないという無罪推定の原則を思い起こす時、チョン・ミョンソク牧師の判決には常識的に理解しがたい部分がある。」

「政経ニュース」の日本語翻訳文「摂理の真実」より引用

無罪推定の原則⇒疑わしきを罰せず
証拠がない無い場合は、冤罪を作らないように罰しない。
それが「疑わしきを罰せず」だ。

司法の良心と言える「無罪推定の原則」が皆無かつ、10年の厳刑。
何よりも滑稽なのが、有罪になったものの、「犯罪の事実があるのではないかという疑いがない」=「嫌疑なし」とされたことだ。

性的暴行の事実はなかったが、どうして「有罪」なのか?

韓国司法官が不正を認めてこのような発言をしている。

「韓国の裁判官が鄭明析牧師に下した判決は、韓国司法の恥だ」

韓国司法について少し調べてみたところ、
韓国の裁判機関についてこのような文言があった。

大韓民国の裁判機関は革新より保守、変化より現状維持を追及するばかりでなく、
ファッショ政権を支持擁護し
その政策を代弁するのが体質化している。
その慢性的な病弊は裁判の痼疾的な遅延、裁判官の不足、業務量の過多、民衆の司法に対する不信感、人事の閉鎖的なキャリアシステムと硬直化、とくに権威主義的な官僚主義と独善等に集中的に現れている。

「「韓国」の治安立法と裁判・検察制度 金圭昇著  社会評論社」

上記の書籍は1986年初版なので30年以上前の韓国の状況を語っている。
もし、この30年前と同じ状況が今も存在しているならば、
日本の元裁判官が腐敗だと告発している部分といくつも重なる。

また、韓国における民衆の司法に対する不信感、意識がわかるアンケート結果があるのでそれを見ながら、
チョンミョンソク牧師の判決について具体的に考察していきたい。

・国民の世論が、裁判に影響を与えることは望ましいこととお考えになりますか?

望ましい・・・78.8%
望ましくない・・・21.2%

(91年度の調査「現代韓国法入門 高翔龍著  信山社」内のデータを引用)

なぜ、望ましいと約8割が答えているのか?
それは、司法が権力や財力の影響を受けて誤った判決がされているのではないか?という疑念が国民全体にあるためだそうだ。こういったことから2007年4月30日に「国民参与裁判法」が制定され、6月1日に公布されているが
チョンミョンソク牧師の裁判には適用されていない。

 「国民参与裁判」は、裁判官3人で、「参与員」は① 死刑、無期懲役・禁錮の場合は9人、② それ以外の場合は7人、③ 被告人が起訴状の内容を認めている場合は5人。
「国民参与裁判」の事件は「重罪事件」に限定されている。
刑法上の犯罪で「死亡」という結果が生じた事件、強盗(致死のみならず致傷も含む)、強姦(致死のみならず致傷も含む)、略取・誘拐、収賄(日本では対象とはならない)で、未遂・教唆・幇助・予備・陰謀なども含まれる。日本の場合と大きく違うのは、被告人に「国民参与裁判」への「拒否権」が認められていることである。
したがって、年間100件~200件の(日本では約2600件)「国民参与裁判」が想定されている。

参考書籍:
「韓国における「国民の刑事裁判参与制度」とその改善提案」
尹 映著『南山法学』第32巻第2号〔2008年10月17日〕
『世界の裁判員-14ヶ国イラスト法廷ガイド』神谷説子・澤 康臣著(日本評論社 2009年6月20日)

しかし当時、チョンミョンソク牧師の起訴内容は重罪事件に含まれる強姦嫌疑だったが、陪審団の審議にかけられなかった。重罪事件なのに「なぜ陪審団の審議がなかった」のだろう・・・・。

そもそも、「国民参与裁判」とは?

韓国の国民参与裁判では陪審員は「有罪か無罪か」の判断を行います。
日本の裁判員のように被告人にどれくらいの刑を与えるべきかという「量刑判断」は行いません。
韓国の国民参与裁判では、陪審員が評議で決定した内容を「評決」と呼びます。
しかしあくまでも「判決」を決めるのは裁判官なのです。
つまり陪審員の出した「評決」を参考にして裁判官は「判決」を決めるのですが、
これは日本においては裁判員と裁判官が一緒に評議した内容が「判決」となる裁判員制度とは大きな違いと言えます。

シリーズ・海外の司法参加】第1部:韓国編(中)-国民参与裁判制度の運用状況と特徴-より引用

陪審員の出した「評決」はあくまでも「参考」ならば、陪審団の審議もなされても裁判官の意向で判決はできるのに、
あえて、陪審団の審議がなされなかったその理由は、裁判として成り立つものではないものということを指摘されてしまう可能性を考慮したからでは?と憶測が湧いてきてしまう。

陪審団の審議がなかった理由は明確に出来ないとしても、
「嫌疑なし」なのに「10年刑」となった「現実」を通して「得られるモノ」に着目したい。

証拠もないのに有罪になる裁判がどうして成立するのだろう

 

「弁護士が”名判事”と評価するのは判事が所信にしたがって
「この判決をすれば判事の座を失うかもしれない」という事を予測しながらもあえて
「法と良心」に基づいて正当な判決をする勇気ある判事のことを指している。

これは大韓民国で所信どおり判決する裁判官がいかに少ないかを示す反証である。

[「韓国」の治安立法と裁判・検察制度 金圭昇著  社会評論社]より引用

正しい判決をすると、左遷される。
保身のために、不当な判決が横行している。ということだ。

つまり、無罪が有罪になり得る
不当な判決は成立してしまっている。
それがあまりにもひどいからこそ、国民参与裁判が必要とされたのだろう。

「嫌疑なしで有罪判決」がなされる原因と理由

キリスト教福音宣教会-摂理は「異端」正統な宗教団体ではなく「カルト」であるという扱われ方をしている
日本においても一部方から摂理-キリスト教福音宣教会は「反社会勢力・カルト集団」という捉え方で熱心な反対に遭って久しい。

わかり易い事例があるので参考までに⇒「熱心に摂理に通っていたら親と他教会の牧師から監禁された話 FEAT.ブラックジャックによろしく」

チョンミョンソク牧師の裁判訴訟内容はカルト団体か否かではない。しかし、捏造された報道でカルト団体の責任者だと見るならば、そのような心象で有罪にするだろう。。。
「ねつ造された報道と言い切れるのは、実際その放送をしたテレビ局が陳謝しているからである。

朝鮮テレビ局は、丁重な謝罪文を提出し、こう述べた;「2014年のテレビ番組『強敵達』にて、キリスト教福音宣教会鄭明析牧師に対する『性的侵害の嫌疑にかけられた後台湾へ逃亡し、8年後に逮捕された』という事実ではない報道によって、誤情報を伝達し、宣教会様の名誉及び信徒の皆様に被害を与えてしまいましたことを、心よりお詫び申し上げます。弊社が確認をせず他社の報道を引用したことによるものであり、弊社編集部に責任があります。」

カルト宗教の教祖と呼ばれた 摂理の鄭明析牧師 獄の中の10年:メディア世論の風が司法判決を牽引より抜粋

上記抜粋した内容の出典元は台湾「新新聞」の全文を日本語訳したものだ。
この台湾の「新新聞」。おもしろい名前だが、台湾の大手新聞社だそうだ。

「嫌疑なし」とされていて「有罪」になる原因は
司法に問題があり、司法の問題は、国の問題だと端的だが、そう言える。

「嫌疑なし」とされていて「有罪」とまかりとおる理由は
国民の大半が摂理という団体はカルト団体だから責任者が制裁受けるのは当たり前だと思っているからだろう。
そして、国民がそう思ったのは、そういう情報を目にしたからだ。

「国民の声」がどのくらいあったのか日本人の私にはわからない。
ただ、この裁判が滅茶苦茶という事だけが歴然としていて、
台湾の大手メディアが韓国メディアの誤報道を取り上げている。

これが「チョンミョンソク牧師の10年刑」のありさまだ。

チョンミョンソク牧師の裁判は、「真相を審議しない裁判」だったのだ。

ちなみに。。。
有罪判決をあらかじめ起案する裁判官が日本にいると告発の内容があるのでご紹介したい。

うるさ型の原告が敗訴判決を受ければ、上訴するのはもちろん、
所長あてにクレーム文を送ったり、新聞に投書しかねません。
そうしたことを考えると、
判決内容を操作し、口うるさい当事者を勝たせればよいのはお分かりでしょう。
「臭いものに蓋」ならぬ「うるさい当事者に勝訴判決」というわけです。

「狂った裁判官 井上薫著 幻冬舎新書」

判決を原告や被告が満足しない場合、上訴する。
その上訴は裁判官の人事評価・出世に響くため、裁判官は上訴を避ける技術を身に着けているそうだ。

上訴を避ける技術とは?

初めから当事者がどういう判決になると上訴するだろうか予想を立て、
上訴の可能性が最小になるように判決(主文)を操作すればよいのです。

「狂った裁判官 井上薫著 幻冬舎新書」

予想し、判決を受け入れるように進めていく・・・それって裁判なの?って素朴に思ってしまうが、おそろしい現実が日本でも起こっていることを昨今、元裁判官たちが告発本を出版している。
アマゾンで調べると芋づる式に見つかるので、気になる方はぜひ一度読んでみることをお勧めする。

なぜチョンミョンソク牧師は厳刑なのか?

チョンミョンソク牧師の裁判の目的とは一体なのか?
本来は受理はしないとさえ言う裁判官もいるぐらいなのに、どうして受理されたのだろうか。
裁判所内の腐敗を完全に露呈させた「韓国司法の恥」と言わしめる裁判の目的とは・・・・
司法の独立性(何の影響をうけることなく裁判官が法律をもとに正しい判断をすること=司法の独立)が皆無なこの裁判は
ひたすらチョンミョンソク牧師に社会的制裁の烙印を押すことだったと見える。

正真正銘のカルト団体ならば、裁判と成立するような起訴があるはず。
しかし、そういう団体ではないからこういう裁判になったのではないか?
私はそういう結論に至った。

どうして社会的制裁を与えたいのか?
摂理の創設者いわゆる教祖が閉じ込められるならば、摂理という団体は自然消滅するだろう。
そういった意図・もくろみがあったのだろう。

台湾の新新聞においてこういう一文でチョンミョンソク牧師の10年刑について結ばれている。

宗教上の少数者(少数宗教)に対する差別が悪化してきている。
既存宗教と新興宗教の争いが確実に社会の調和を阻害している問題が生じている。

台湾大手新聞社 新新聞「摂理教会ー詩人牧師が見た10年の鉄のカーテンの逆境学」日本語訳 より引用

新興宗教という表現は当事者としては、ひっかかりを感じるのが否めないが、実際のところ韓国や日本で摂理はカルトだと熱心に話されている方達は「摂理は新興宗教だ」とも言っているので、そういうものから影響を受けているのかもしれないし、たしかに団体としての設立でみるとまだ40年くらいなのでそういわれても仕方ない。

なにより注視すべき点はコレ、宗教団体間の軋轢による「社会調和の阻害」。
「宗教やってるくらいならばもっと人格的に平和にお互い認め合えばいいのに何で?」そう疑問が生じるのが否めないだろうと察するのと同時に、争うっていうよりは一方的にやられっぱなしな摂理ってカワイソウって思ってくださっている?と感じた私の感想はさておき、深刻な人権侵害事件になっているよと台湾メディアは報じている点。

日本で人権侵害が思い当たるのは・・・
摂理から関係を切るために監禁を合法的に勧める日本の宗教家の話だ。
そういうことがあると摂理のメンバーから教えてもらって震えた。

口頭のやり取りで関係など簡単に切れる(というか、連絡途絶えるだけで関係は切れるというかガン無視されることが普通にある現実)なのに、そこまでするの理由って一体。
そこに問題を覚えるのは私だけだろうか。

いずれにしても、法を守って自分の身が守られるようにしたいが、その法をもとに司法が動いていなければ冤罪というあってはならない事象が起こり得るのだと知った手前、日本や韓国、国ごとの司法の為に切実に祈って行動できることから行動しないと!そう思った。

火のない所に煙は立たないでしょと思われる方へ

そう思っている方がもし、いるならばお伝えしたい。

チョンミョンソク牧師は中国の取り調べ(10か月に及ぶ拷問)の末、「罪は認められない」と釈放された時、このまま中国にいてもいいですし、韓国帰ってもいいですよと。言われたそうだ。
なぜ10か月も取り調べを受ける必要があったのか?
摂理(キリスト教福音宣教会)を反対する団体が中国公安へ「摂理は中国国家を脅かす法輪功と関係している」「台湾の独立を支援している」など有害な組織の統括者だからよく調べるようにという通報があったためだ。

中国の取り調べは人権を無視した拷問を伴う取り調べである。
また日本人が麻薬の密売にかかわったとして死刑になった事件などがあるように外国人だからと言って例外ではない。
そういった中国で「嫌疑なし」とされて釈放されたのだ。

チョンミョンソク牧師は、韓国の空港に降り立った際に開口一番にこう尋ねられたそうだ。

「みんなちゃんとご飯を食べている?」

中国での拘留生活は、家畜の飼料のようなパンがほとんどだったと後から知った。
もし誰かが自分みたいにちゃんと食べられていなかったら、ちゃんと食べられるように助けてあげて。
そのような一言、しようと思って出来ることだろうか?

自分がそのような状況に置かれた時に果たしてそのように言えるだろうか。
わたしには出来ないと思った。
チョンミョンソク牧師は、自分が大変な時は自分の様に大変な人がいるかもしれない。
そのように考える方なのだと、この話を聞いた時、改めてそう思った。

10年刑のチョンミョンソク牧師

ありえない裁判によって、絶望してもおかしくないはずだが、チョンミョンソク牧師は「法は愛であり、法は命を守る保護するものだ」と最近の主日の説教で伝えられている。

わたしは、チョンミョンソク牧師を通して本当の愛ってなんなのか、それを見出す。

憎むこと、憤ること、責めること、落胆することは簡単なことだが、
赦すこと、励ますこと、認めること、希望を持つことは非常に難しい。
この難しいことって、「言葉だけ」ならばすごく簡単だ。
しかし、チョンミョンソク牧師は昔から今もそのように生きている。
有りもしない罪を償う為に閉じ込められ、犯罪者の烙印を押されているにも関わらず
その中でも、チョンミョンソク牧師は、人生について、愛と平和を成すことについて行ないながら今もなお、説き続けている。

後記

わたしは摂理に出会う前は自分ことだけ考えていたような人間だったが、今は社会問題について深く考えるようになった。

冤罪も何が原因なのか調べていくとき、その構造を知ったら自分も裁判について、法についてあまりにも無知であったり、誤った認識でとらえている自分に気づいた。
知ることが本当に大きい。
知らないと、問題も問題だと気付けずに、通り過ぎてしまうところだった。
社会問題は自分と関係がないと思っているから問題のままだ。
「問題の答えは問題の中にある。」
そうこの言葉が本当に真理だったと痛感する。

最後に
台湾4大新聞の一つ聯合(れんごう)新聞に、<鄭明析牧師の10年刑>について言及した記事の一部分を紹介して終えようと思う。

彼は手紙で問題を解決するだけではなく、代わりに祈ってあげなければならない人々の名簿を一重ねまとめ出し、毎日一人一人名前を挙げて彼らの為に祈り、また世界平和と各国の安全の為に祈っている。
これが鄭牧師の獄中の生活である。鄭牧師は体が不自由であっても、依然として努力しもがいて信仰生活を過ごし、聖書の教えを伝え広めている。

鄭牧師は台湾の教会の人々に、自分の国のために力を尽くし、社会に進み出てボランティア活動を通して社会的弱者を助けるよう激励した。また、若者が自分の個性通りに自己を作り、「まずは自分自身から変化して」安住していた世界から抜け出し、積極的に地球を大切にして各地でビーチクリーン活動を進行するよう励ました。

そして、彼は天の教えと神様が命を愛する心を曲の中に書き入れ、音楽を通して彼の愛を伝え広めようとしており、音楽家と共に国家級の音楽ボランティア活動開催も予定している。

マルコによる福音書12章30~31節の聖句―
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」 第二はこれである、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」という聖書の教えを行いで実践している。

聯合新聞[鄭明析 鉄のカーテンの中の逆境学 10年の冤罪人生 ]  文 王文衛

摂理の猫カフェ「鄭明析牧師の10年の冤罪人生ー台湾大手メディアに掲載」より引用

酷い状況の中でも絶えず感謝の生活をされているチョンミョンソク先生。
休まず、絶えることなく善と義について全身全霊で伝え続けて下さっているチョンミョンソク牧師の服役が終わる。

「冤罪人生」と台湾の新聞2社から表現されている。
たしかに先生は冤罪の被害者だ。
しかし、その状況・環境に負けなかった。

勝ち負けで表現するならば、完全に勝利したと私は言いたい。

その場所で10年間途絶えることなく説教原稿を送り続けてくださった姿を見たし、そこに行く前も行ってからもずれることもぶれることもない「ひたすら神様」という絶対信仰。
完全な信仰がこの地球上にあることに、私は人生の意味と答えをもらった。

だから、先生の冤罪人生は私にとって宝であり、誇りであり、バトンだ。

先生が人生かけて教えてくれたことを行なって、証言していくことだけが残っている。
そう思う。