実際、洗脳とはどういうものか?をまず定義を確認し、実際をレポートする記事。

わたしは13歳のころから20歳までの約8年間キリスト教のミッション系の学校に中高・短大に通っていたので、
かならず平均週3時間以上は聖書や神様の話、お祈り賛美などに触れておりました。
聖書の授業は中学・高校においては全学年かならず2時間あり、短大でも前期後期どちらかで必修だったはず。
多感な10代の時に聖書に触れる毎週、毎日なんらか神様について触れる時間があるというのはある意味、洗脳ではないか?と思われる方がいたので、実際どうだっただろうか?を綴ってみました。

1.「洗脳」とは一体どんなものであり、どういうことを指すのか?

定義1.
[意味] 洗脳とは、精神的・物理的な圧力によって、相手の主義・思想を根本的に変える事。
[洗脳の語源・由来]
洗脳は英語「branwashing」を直訳した語である。
洗脳は肉体的な拷問によるものではないが、飢餓状態や睡眠不足などを利用して圧力を加え、
思想(脳)を改造する(洗う)ことで、第二次大戦後の一時期、中国共産党がアメリカ人捕虜など共産主義者でない者に対して行った、思想改造の教育方法の一つを指した語であった。転じて、洗脳は主義や思想の改造に関する広い意味で用いられるようになった。

語源由来辞典より引用

定義2.
洗脳
せんのう
brain washing
個人の思想や価値観を,物理的,社会的圧力を加えるなどの操作によって必ずしも本人の欲しない方向へ急速かつ大幅に改変させること。共産主義国家などで行われた強制的な思想改造が知られる。感覚遮断や賞罰の操作などの反復による学習の一つといえるが、その効果は永続的でない場合が多いといわれる。

コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より引用

定義3.
洗脳【せんのう】
特異な環境下で一貫した徹底的な教育を行い、従来もっていた思想・信念などを洗い流して新しい思想、信念を植えつけること。〈思想改造〉を意味する中国語に由来。程度の差、手法の巧拙はあれ、あらゆる教育が洗脳である。

コトバンク 百科事典マイペディアの解説より

3つの定義の共通している点「なんらかの圧力を加えて、全く違う思想を植え付ける」ということ。
そして、「圧力」がなければ、成り立たないのが、「洗脳」とも言えそうです。

2.宗教で「洗脳される」というようなイメージが日本では一般的に存在しているが、さて洗脳はあり得るか?

定義からすると、特殊な環境で、圧力をかけられるような状態に置かれるならば洗脳は起こり得ると言えますが、
定義3によると「あらゆる教育が洗脳」だとしているので、定義によるところもありますが、焦点は学校教育でキリスト教精神等を導入しそれが信仰に結びつくか否か?にしたいと思います。
つまり、信仰持てたら洗脳。
持てなかったから洗脳にならないという観点
です。

では、まず日本にどのくらいのミッション系の学校があるか?というと

日本の私立学校の中にミッション・スクールと呼ばれるキリスト教系の学校
小学校から大学まで プロテスタント系333校 カトリック系315校
高校だけでみれば プロテスタント系 94校 カトリック系115校 計217校

日本の高校5418校そのうち、国立・公立が4097校、私立が1321校。
私立は高校全体の24.4%その中でもミッション・スクールは私立の16.4%なので高校全体の約4%を占めている。

ミッション・スクールの女子教育に関する一考察 渡辺良智著より抜粋

私が通っていた中高の全校生徒は当時大体1000人くらいだったはず
当時で開校107周年とかいっていたので、洗脳が成されて毎年どのくらいのクリスチャンになったでしょうか。。。

いまだに日本の国民の割合の1%もみたないクリスチャン人口が事実を物語っていると思いますが、ミッション系の学校に入学をしたからといって、かならずクリスチャンにならないという現状です。

実際、自分が8年間も学校教育の中で触れていて洗礼を受けようというまでには至れなかったのは、
いうまでもなく、圧力というほどのものがなかったし、イエス様を知る神様を知るという聖書の授業はあっても、
納得がいく答えが無かったからです。

しいて、「圧力」があったと言えるかな?というのは
中学一年生の時に「主の祈り」の暗記をさせられたくらい。
宿題だったので、そうか覚えるか…というかんじで、中学一年生ゆえに非常に従順だった気がするけれど、でもこんな強制ってよくないよねと言っている早熟系な同級生もいました。(←なぜミッション系に入学したのか不明ですが)
ちなみに、中学二年生には「主の祈り」を英語で覚えるという課題に次元が上がります(笑)
覚えた人からなんか解放されるような感じだった覚えがあります。なのでちょっと強制感が強かったかと。
しかし、当時の英語の先生はもうかなり前に定年されているだろうし学校の方針も当時と変わっているかもしれないですが・・・・。
ちなみに、主の祈りは礼拝でよく唱えるように祈っていました。あと、ご飯食べる前に短い賛美「日々の糧を与えたまうみ神の恵みに感謝します」を歌ってからご飯たべることになってましたが、こちらは中学1の時しかしなかったです。

今でも日本語の「主の祈り」はそらんじることはできますが、
英語版「主の祈り」は卒業して3年以内に忘れました笑
出だしの「Our Father 」からの一節ぐらいは出てきますが・・・
やはり使わないと完全に忘れますね・・・(^_^;)

当時、中高6年間でクリスチャンになった同級生はたしか1人。
入学する前に洗礼を受けたという人が1人いました。。。
あとはクリスチャンのご両親だったからという方が1人くらい。
たしか1学年200人弱はいたはずでもそのくらいでした。

私自身の体験・見解

ミッション系の学校も様々だと思いますが、山梨英和はけっこうキリスト教を真剣に教えて信仰に触れるようにする時間が多かったです。(今は違うかもしれません。あくまでもこれは私の頃だけの話かもという事が前提です)毎朝、朝礼と夕礼を捧げて(お祈りと讃美歌、そしてバイブルメッセージががある)なおかつ毎週2時間聖書の時間があり、それを6年間あり、そして毎年11月には修養会・宗教強調月間(今思っても、すごいタイトル;)があったとしても
そして12月には全校あげてのクリスマス礼拝があったとしても
クリスチャンにならない・・・・。
やまなしという片田舎が、日本の縮図として見て良いかはわからないですが
実際、キリスト教徒が日本の人口1%を超えたことが無い。という事が実証しているように、学校教育で信仰を植え付けることはないと言えます。
ただしこれは、信仰というものがどこから始まるのか?洗礼をしてこそ信徒・信者として見なされるという観点で限った話ですね。教会に毎週通わなくても、日本独自の神仏の信仰観ではなく、創造主神様イエス様を信じるという信仰がある人達はいると思います。

私自身の体験だと中学3年間でまずキリスト教と仏教の違いに衝撃を感じながらも少しずつイエス様・唯一神の神様に慣れていったのを感じます。高校から入学してきた友達は「やはり慣れない」と言っている子が多かったです。
日本の何気ない考え方が結構、仏教寄りなんだと当時の聖書の授業で驚いた記憶もあります。(輪廻転生は仏教だけで、キリスト教は人生は1回限りなのだと初めてしって衝撃を受けました)

洗脳を恐れる人と、ミッション系の学校の意図の「そもそも」の溝。

キリスト教の学校に入る事で「キリスト教信者」になるのでは?と思う人や「信者でない人は学校に入れないのでは?」という懸念を持つ方もいらっしゃるそうですが、
「ミッション」とは「使命」であり
「何の使命か?」というと「キリストを知らせる使命」なので
キリストについて創造主について知らせることを目的としている学校なのです。
だから、入学するならば信者になるならないとイケナイという話ではなく、
知る機会を設けて、興味を持って考えてほしいという意図なので
普通にお寺のご息女が通っていたりします。

多くの日本人は宗教=勧誘というようはイメージがあると思いますが、
摂理ふくめて、キリスト教のあらゆる人達とやり取りをして思うのは「信仰を持つ、持たないは個人が選ぶこと」という自由意思が前提にあります。それは、仏教などほかの宗教も同じではないでしょうか?

3.摂理で洗脳があるのだろうか?

学校教育と摂理の違いは、学校か教会かの違いであり、
ゆえに、家庭での判断か、個人の判断かの差だと言えます。

なので、子供が摂理で学びたい、信仰を持ちたいといっても、親が否という場合があります。
そして、その親御さんが「否」という場合、摂理がカルト・洗脳をしているからだというのが理由として上げられると思います。

では、実際洗脳が摂理で行なわれているのでしょうか?

再度、【洗脳】の定義を確認しますが・・・

「精神的・物理的な圧力によって、相手の主義・思想を根本的に変える事。」

「個人の思想や価値観を、物理的・社会的圧力を加えるなどの操作によって必ずしも本人の欲しない方向へ急速かつ大幅に改変させること。」

「特異な環境下で一貫した徹底的な教育を行い、従来もっていた思想・信念などを洗い流して新しい思想、信念を植えつけること。」

この「圧力を加える。」「徹底的な教育」という点、
監禁をして、摂理から脱会させようと説得するそちらの方が当てはまるような気がするのは私だけでしょうか・・・。
そのような非人道的・危険な方法で摂理の教理・教え?を教え込もうとすることは一切ないので
私は今も摂理に通っています。

 

4.宗教的な教えに「洗脳される不安・おそれ」が無用な、その理由。

人間には、考える力と選択する自由意思があります。
ゆえに、納得がいかない事を信じることなどできないのではないでしょうか。
なので、私は当時、洗礼を受けなかったです。
そして、納得できた場合は、人に何言われようが、摂理に通っているような感じです。
自分が見て、自分が決める。それは当たり前のことですね。

何か脅したり、不安にならせるようなやり方で信じさせようとするやり方で信徒・会員を増やす
新興宗教があると聞きますが、それは宗教という名前を借りた詐欺ではないでしょうか。
摂理が、それと同列に捉えられてしまうのはなぜなのか考えると、
それは不安・心配するしかない情報があるからでしょう。
しかしそれは、事実ではないです。
ではなぜ事実ではない情報があるのか?「摂理カルト論」をよかったら読んでいただけたらと思います。

摂理で教祖を崇めるようにしているという話を信憑性があるように話している方がいるようですが、
もしそんな所ならばとうの昔に摂理と関係を無くしていました。

しかし、私もバイブルスタディを摂理で学び始めた当時、そのように懸念したことがあります。
あまりにも摂理のメンバー(信徒)たちがチョンミョンソク牧師を敬愛しているのをみて、ちょっと引く時があったんです。
でも摂理でいろんな人に出会うようになって行く時に、
チョンミョンソク牧師に対して、反感を持つメンバーも普通にいるのも、見ました。
イエス様について自分も愛してきたが、チョンミョンソク牧師が自分の方がイエス様を愛していると言って気分が悪かった。とか。チョンミョンソク牧師をイエス様よりもっと重要視しているメンバーがいるのが嫌だと言っている人がいたりとか。
どちらにしても、結局チョンミョンソク牧師がどうというよりは、それぞれの考えによるところだと思います。

わたしはチョンミョンソク牧師が
「イエス様を信じること、神様を愛すること」をそれがただの言葉ではなくて、実践がともなってるのをリアルに見たので、
その真実さに心撃たれました。だから、尊敬する事ができる方だと思っています。

洗脳とは言えない。その理由、それは・・・

時間と情報を与えても受け取る側によるということにつきます。
受け取る側の意志が大きいです。

つまり、時間をかけて情報を伝える・教えるとしても、受け取る側が必要だと思わなければ全く残らないです。
私の妹たち2人もそれぞれ同じ山梨英和に中高6年間通いましたが、卒業してからひとりの妹は聖書を捨てました。
「何も捨てなくてもいいのでは、毎日読むことはないとしてもいつかまた読みたいと思う時がくるのでは」と言ったら
「必要かどうかは自分が決める」といっていました。

このように大学生、高校生くらいになれば、大人の話をうのみにはしないのではないか?と私個人は思っています。
親離れをするような精神的自立を経ている場合は、他者の意見を鵜呑みにせずに自分の目で見て感じた事をもって、分別と判断のふるいにかける力があるくらいになっているはずだと。

ただし、巷にはたしかに洗脳や宗教についての認識が曖昧に怖い感じで存在しているので、
これについてまず、曖昧さがすっきりなくなるようにしたいと思いこの記事を書いてみました。
少しでも参考になるところがあるならば幸いです。