About 摂理

摂理はカルト?そもそも論。

摂理がカルトなのか、カルトでないか?というよりは、

そもそも一体、どういう根拠からの話なのだろうか?
なぜ「摂理はカルト」という話が出てくるのか?
事実とかけ離れた話が、そのままどうして認識されてしまうのか?

その理由について考察してみました。

はじめに。。。
「摂理はカルトである」と明言されているのをどこで目にしたり聴いたことがあるでしょうか?

わたしは摂理に来る前、私はキリスト教の宣教師が立てた学校の中高短大に通っていました。山梨英和です。
聖書の時間が1週間に1度あります。そこで、摂理というカルト宗教に気をつけろと聴いたことが有ります。
しかし、その話と摂理の実体があまりに違っていて全く結びつかなかったので、
摂理に来てから2006年の報道で「あ~あの時、学校の先生や牧師が言っていたのはこれだったのか」と、ようやく分かった次第です。
あまりに違うため、驚きとともに笑っちゃいました。

学校の先生たちがおっしゃっているようなカルト集団とは
似てもにつかない摂理の実態をみた自分としては、
「摂理はカルト宗教である」という情報がどうして存在するのか、不思議でした。
数年、考えてみたところ、見えてきたことがありました。

「摂理はカルト宗教である」この情報自体が、実際は「情報ではない」ということです。

摂理はカルト宗教であるという情報が実は「情報ではない」その理由
情報発信者の価値判断からの意見であるから。

え~どういうこと?っていうかんじですよね。。。

まず、意見と情報の違いをはっきりさせて、その理由に入って行きたいと思います。

「意見」とは、個人的な所感・見解であるならば、では情報とは一体どんなものでしょう?

 

情報
じょうほう
intelligence

国家,団体,または個人が,敵対,対立,競合関係にある国家,団体,個人についての状況を知るために獲得する知識をいう。対象が友好国 (団体,個人) もしくは自己または第三者に関する相手側の情報ないしは判断もまた情報として処理される。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より

【情報】
ある物事の内容や事情についての知らせ。インフォメーション。「事件についての―を得る」「―を流す」「―を交換する」「―がもれる」「極秘―」
文字・数字などの記号やシンボルの媒体によって伝達され、受け手に状況に対する知識や適切な判断を生じさせるもの。「―時代」
生体系が働くための指令や信号。神経系の神経情報、内分泌系のホルモン情報、遺伝情報など。

goo辞書より

 

次に、「意見」と「情報」の違いが分かるような例を挙げてみたいと思います。

 

個人的に感じた感想・意見は、情報とは言い難いです。
例を挙げてみます・・・

A定食とB定食どちらも食べたことが有る人に、
どちらを食べてよかったですか?訊いてみた時

「おなかすいている時は、Aの方がいいかな。」
と返答されるのと

「Aは主菜がカツレツだから、かなり食べごたえもあるし、小鉢が三つ付いて野菜もたくさん食べられていいとおもう。」
と返答された場合、どちらが判断しやすいですか?

無論、後者ですよね。

例を人に換えてみます。
Cさんに会ったことがないので、Cさんはどんな人なのか会ったことが有る人から、どんな方なのか聴いてみました。

「あ~Cさんね。元気があまりないよね。声が小さいし。なんか暗い気がするよ。」
という話を聴きました。

また、ほかの方に訊いてみました

「Cさんは、のどにポリープがあって今あまり大きな声で話すことが出来ないです。もともとはカラオケが趣味なので、歌えないので落ち込んでいます」

どちらが、情報でしょう。こちらも無論、後者ですよね。

判断しやすい具体的な話。そして、実情を知っているか知っていないか。
情報たらしめる要素はそういうことだということです。

ゆえに、「摂理はカルトだ」とおっしゃるお話しも
本題の内容が、意見感情とは隔した、情報なのかどうか?ということを軸に見ていただけたら、事実が見える情報なのか、そうでないのかが分かるのではないかと思います。

また別の例を挙げたいと思います。

ディズニーランドという存在もよく知らない上に、まだ行ったことが無い人がいるとします。
その人に対して、
「あそこは、行ったらかなり損するところだから行かないほうがいい。」そう言う人がいたらどうでしょう・・・・

(実際、ディズニーランドは夢と魔法の国を再現するクオリティがハンパないテーマパークなので、この例はあんまりかもですが(^_^;))

ディズニーランドについてまったく知らない人は、
その「かなり損する」理由を知りたいのではないでしょうか。
またはディズニーランドに行ったことがある人は、
損するという話に対して、「何言ってんの?」と思うか「あ~自分の好みが合わないだけなのに、自分の物差しで話しているな~」とか。もしくは、「営業妨害をしようとしているのかな?」とか。
思うんじゃないでしょうか。

意見として受け取るならば、「そういう意見もあるんだ。」という個人的見解を受け止めることで終わりますが、
もし情報として提示する意図で「行かないほうがいい」という話だと、理由根拠があってこそ成り立ちます。

「行かないほうがいい。」という事実・根拠があるのであれば、
行ったことが無い人にとっては、「行くか」「行かないか」を決める判断を助ける情報であり、情報を受け取る側は損失を回避できます。

しかし、その事実・根拠がないならば、どうでしょうか。
または、事実をねつ造したらどうなるでしょうか?
その情報を発信した人の責任と目的が問われる所がありますよね。
なぜならば、情報を受け取る側の行動を左右する結果が生じるので、情報のもたらす威力は認識以上に大きいです。

つまり、情報と意見の大きな違いは
受け取る側において、物事の判断材料となる情報があるのか?ないのか?
その違いが「意見」と「情報」の差ではないかということです。
つまり、事実的根拠がなければ意見だということです。

摂理はカルトだという意見が出てくるのはなぜか?

まず、意見とは各個人の価値基準や意志による判断によると言えます。

楽天とか、アマゾンとかで買い物するとレビューありますよね。
あれ、参考になりますけれど、選ぶときの軸が人によってそれぞれあるのをそのコメントから伺えます。

安ければ質はそこまで求めない。それならば☆4つ。
安くても、自分の求めている水準の質でなければ☆2つ。

個人の物差し・自分の中にある軸(評価基準)と一致するかしないかで
その意見が自分にもたらす影響度は変わると思います。

または、
若い時は質より量のバイキングがいいけれど、
社会人になって経済の状況と体調が若い頃と変わってくると俄然、量より質をみるようになりませんか?

そのように意見とは「個人の考え方・状況・価値観等によって下す判断・評価等によるもの」だということです。

わたしには2歳になった姪っ子がいるんですが、最近自分にとって気に入らないことがあると「嫌い!」というそうです。

何がどのようにとかまだ表現できないからそうなるんでしょうけれど、不快感・嫌悪感・不服を全部ひっくるめてその単語を使うようです。

「摂理はカルト」と言う話がでてくるのも、それと似通っていると思いました。
仏教徒でも神道でもない無宗教に近い日本人の宗教に対する感覚から、
宗教的な恐さ=カルトという表現となるのではないかと。

箱の中に手を突っ込んで、箱の中に何が入っているのか?それを当てるゲームとかしたことありますか?
目で見えないし、触っている部分で考えて、当ててくので、自分の考えと経験で考えて想像するゲームです。

先に触った人たちの感想などを聴いて、想像して、中に入っているものが何かをあてる。
しかし、人の話をうのみにすると、ものすごい間違ったりします。
みんな箱の中を見ていない状態で、自分の思うことを話しているだけなのにそれを持って考えると事実とずれるしかないです。

極論承知で申し上げると、
摂理を脱会された方が摂理はカルトだと仰る場合は、箱の中を見ないで、自分の感覚、考えで、「キモイもの触っちゃった~」という方ではないかということです。

つまり、「摂理はカルトだ」という意見も
辞典で「カルト」とか引いたその通りの意味・言葉が当てはまる現実なのかどうか?というよりは
個人の考え・感覚による意見であるということです。

何かキモイ。理解出来ない。=「カルトじゃね?」みたいな感覚的判断。
もしくは、価値観に合わない話・理解出来ない話をする=「カルト」
そのような個人的見解からの意見ではないかということです。

 

「摂理はカルト」という話がなぜ、そのまま受け取られているのか?

「摂理はカルトだ」と仰る方の「意見」が、「情報」として処理されているからだと思います。

意見も情報の範囲に入るのかもしれないですが、
他者の判断・結果に影響を与えるというのが「情報」であり、
情報なりうるには「事実的根拠」があってこそであるにも関わらず、
内容がセンセーショナルだと無意識に、情報として受け取る傾向があるのではないかと気づきました。

日本の社会で「カルト」という単語が敏感になるのは、
いわずと知れたオウム真理教の事件によるところが大きいと思います。

若い人・大学生が多い。女性が多い。
あれ、あれに似てない?・・・
あれと同じなんじゃない?恐い。関わらないほうが身のためだと
そういう判断されることもあるのではないかと。
火がないところには煙が立たない。といったことわざもあり、
そういった推量・憶測で自分は関係しないように気を付けようという自衛手段なのかもしれないですが、

そのように判断される方々がいることで、
摂理脱会者の「個人的意見」が、自然に事実のように認識され「情報」としての機能を果たされる構図が成り立つようになります。

キリスト教福音宣教会-摂理は営利目的で運営されている団体ではないので、営業妨害とかにはなりませんがしかし、事実とは一切一致しない話をもってカルト集団だとレッテルと貼られると、当事者として非常に気分がよくないです。
最近、「南馬宿村役場」という架空の村を題材に、役場の人が運営しているように作っているサイト(ブラックユーモアの塊な(^_^;))がありますが、その村が秋田県にあるというウワサが流れて、秋田県民の方は憤慨されているそうです。。。
お気持ちわかるな~としみじみ思いました。

マスコミが報道した「摂理=カルト」はどうなのか?

「摂理はカルトだ」報道が、事実ではないと断言できます。
2006年の報道の折、私が実際見たことをもってお伝えしますと・・・・。

当時、集まりをしている時に、
アポなしでカメラまわしながら、室内に入ってこられるマスコミの方をみて
人権も常識もないことに唖然とするしかありませんでした。
また、道に待機して、礼拝に向かう歩いているメンバーに向けて
カメラまわしているのですが、着飾った感じの女性だけ撮って、ラフな格好の女性は撮っていませんでした。そして男性と女性グループがいるならば、女性だけ撮っていました。
撮るだけでも、事実が歪曲されているようなので、おそらくもっと実状とかけ離れた放送内容となるだろうな~と思いましたが、案の定でした。

摂理に、普通にいろんな人がいるってことが、わかったらつまらない。
カメラって写したいところだけ写せるし、後でテロップや音声でいくらでも加工できるし、どうにでもできる。事実を報道するというよりは、世間を騒がすように作る事、視聴率云々、自分たちの利益が目的なんだな~。
悲しい現実を見させてもらいました。。。

マスコミすべてそういう方々ばかりではないと思いますが、摂理はカルトだと認識を定着させた10年前の報道は利益が目的の報道(情報加工・情報操作的な映像)と言えます。

インターネットで「摂理はカルトだ」と語っている方々の目的・理由は何か?

営利目的でマスコミが「摂理はカルト」として映像等を作成し、「情報」として、発信することがあるとするならば
そもそも、摂理脱会員の方が記事を書かれている方の目的は何でしょうか?
金銭的な目的があるのか?ないのか?
書くことで得られる内面的な充足があるか?ないのか?
訊いてみないと、わかりません。

ただ憶測的な仮説になりますが、
自分の行動を肯定化したいのではないか?ということです。
自分が摂理を出たこと。脱会したことが、本当に正しかった。
ということを肯定化したいのではないかということです。

もし本当に、私たちがカルトならば、その行いの通りに神様が裁かれるでしょう。
自業自得。行なったとおりに自分の身に起こるということですけれど、それが神様のさばきです。
放っておいて自分は自分の行きたい道を行くほうが有益ではないでしょうか。
人生長そうで長くないですし、時は金なり。時間の尊さを考えるとより建設的に時間を使う方がより良い人生を生きることが出来るのではないかと思う自分としては「摂理はカルトだ」と伝え続ける方の理由について、勝手ではありますがそのように推測しております。

摂理にいることがどれだけマイナスなのかを書くことで、より興味関心を得られ、同情も寄せられ、自分の「脱会した」という判断・行為が正当であり英雄的にも感じられるのではないかと思われます。

摂理から出ていく人がいる理由は様々あることは確かだと思います。
摂理にいる私たちが直すべきこともあるのではないかと思います。
でも、私たちがカルトだと言わしめることは、「ない」と断言できます。

もし摂理において、洗脳が有ったり、先生を教祖として盲目的に信じたりしているならば、私たちがもっと話すことが常軌を逸していても不思議ではないでしょう。
この私を見てくださっても明白ですが至ってヘイヘイ平凡、ヘイボンボンな私です。

もし、カルトならば、それこそ洗脳するために監禁するんではないでしょうか。
そして、「摂理はカルトだ」と言っている方々に暴力を行使したりするのではないでしょうか。
しかし、監禁されるのはむしろ摂理の会員であり、言葉の暴力を受けるのも私たちであることが実情であったりします。。。

摂理にから出ていく判断をする方々をある例でたとえるならば、
「ある学校に入学をしたけれど、思ったより面白くなかったです。
退学して、別の学校に編入しました。」という人だと思いました。

同じ年に入学をした他の人は「自分のしたい事もでき、学びたかった事も学びながら、新しいことにも挑戦でき、充実した学校生活を送りました。」という場合、その学校の理念・方針・カリキュラムに原因・問題があるかというよりは、その個人の考え・姿勢・価値判断によるものではないですか。

摂理脱会者の方が摂理の人々や摂理で触れた見聞きしたことについて
「ご自身の考え・感覚で受けた印象等」は、否定はできない実際です。
しかし、それがイコール摂理の実体ではないということです。

ちなみに、摂理は追い出すことはなく、出ていく人のことを心配はしても、泣いてすがって止めるということはないです。
これはあくまでも自分が見聞きしたことの範疇なので、泣いてすがって止めた方も、もしかしたらいるかもしれません。しかし、洗脳とか何かのノルマとかそういうことは一切ないです。
心配とかそういう親愛の情からくるものです。

個人の決定は、止められません。なぜならば、自由意思だから。

出来ることは、「より良い人生を生きることが出来ますように。」とお祈りして差し上げることだけです。

では、個人的な見解・意見としてのカルト定義がなぜ
さも事実なように見えてしまうのか?

「あそこのラーメン屋、油がやたらと多くて、うまみというよりは油味だった。」と
実際、食べた人がいうならば、さっぱり系が好きな人は「そっか、じゃ私は行くのやめよ」と思いますよね。

もし行ったことが無い人が「あそこまだ行ったことがない店なんだけれど、みんなあんまり行かないほうがいいっているよ。なんか高いだけで美味しくないらしいよ」という情報だと、言っている人が信頼できそうな人ならば鵜呑みにするかもしれないですが、説得力はどちらの方がありますかね。

ヤハリ、その店に実際に行ったことがある人の言葉・情報ではないでしょうか。
またメディアに紹介されたり、肩書きがある人・著名人的な人のコメントは、そうなんだと受け入れる傾向があるかと思います。

摂理はカルトである!と仰る方々の面々は
過去摂理で礼拝捧げたり、メンバーだった時期がある方
摂理とは異なる教団の方で、摂理の実体を見ておらず憶測で不安がられている方(どこかの教授とか)、おもにこの2つに集約されるかとおもいます。

摂理が悪い団体=「カルトだ。」カルト的な事実があるのではないかと印象を与えるのは
「かつて摂理にいたことが有る人が話しているから」
ある程度の社会的地位がある「教授が悪いっているから」という事なのではと思われます。

しかし、
運転免許を持っていても、全員がマナーがいい運転手ではないように、
やぶ医者と名医がいるように
最近、中日新聞で記事を「想像でかいた」という問題もありましたが
資格と肩書き等があっても、その方の考え・話されている内容が正しいとは限らないということを、常々感じます。
実際、その情報が事実なのかどうかを計る事が大事ではないでしょうか。

事実的根拠を持って、「カルトではない」と言える立場の私からは
カルトだとおっしゃる方々のお話は事実的根拠が見えないため、ちくわ耳になるしかないのです。

そもそも摂理がカルトではないという『事実的根拠』って何か?

宗教に物凄い抵抗があったけれど、
御言葉を聴き、礼拝に出るようになった大学生の男子がいました。
同じ時期に礼拝出るようになった友達がその子は摂理が悪い団体だという情報を聴いたことから、摂理から出て行ったことを期に、
「摂理が先生が本物なのか、それとも摂理を外から見て悪く言う人達の話が正しいのか確認しよう」と思ったそうです。

どうやって確認をしたのか?

先生が手で説教の原稿を書かれるので、先生がされていることを自分もしてみたら本物かどうかわかると思って試したそうです。
先生は食べる時間も削って原稿を書ているので、ご飯を食べないで、先生のように正座で原稿を書き写したそうです。

手がどれだけ痛いのかわかったし、おなかがすくから目が回るし、足もしびれて感覚がなくなるし、あまりにも普通には出来ないことだとわかったそうです。
先生がどんな思いで原稿を書き送ってくれているのか、その心情と愛を感じたそうです。

泣きながら、言っていました
「先生のことを悪く言う人にもし会ったら話そうと思う。
先生がされたことを実際やってみてから言ってみるがいい」
と。

摂理がカルトではないという『事実的根拠』=「行なう事」でわかる。

その子は、先生がされている事を実際、行なってみる。という事をとおして、
想像を超えて存在する愛を悟って、摂理はカルトではないという判断に至りました。

私が摂理はカルトではないと思う根拠も同じです。

私は今、摂理の教会がない山梨にいますが、山梨が好きでいるわけではないです。
苦しくて、悲しい思い出の方が多い場所です。
毎日怒鳴り声があって、自分も毎日自暴自棄して、終りがない我慢大会みたい。
逃げ出したいけれども、行く場所がなかった若い頃を思い出します。
希望が見いだせなかったです。

考え自体が問題だとわかってはいましたが、「悪い考え」の直し方、捨て方を知りませんでした。
心理学の本を沢山よんだり、心理カウンセラーの先生に相談したり、精神的な問題かと思って精神科を受診しようとしました。しかし「あなたは自分のことをまだ客観的に見れているから、薬とかを出すような段階ではない」と言われました。ものすごい苦しいのに、どこいったら直るのか?
自分で自分を否定する、この悪い考えはどうしたらなくせるのか?本当に途方にくれました。

そういう私が、聖書を摂理で学んで、実体的な信仰とはなにか?を
メンバーと交流したり先生の説教や生き様を知るようになって
「神様を信じて御言葉を行なってみる」ということで
「自分はダメだ」という考えに生活の中で徐々に亀裂が入って壊される分、
「自分が今存在していることが、貴く貴重なのだ」ということが少しずつ取り戻されて行きました。

先生が今までされてきたこと、今受けている濡れ衣も誤解も考えると
先生は、やりきれない無念な思いが多いと思います。
しかし、一番先生つらいはずなのに、逆にいつも心配してくださったり、励ましてくださったり、
希望と力を与える御言葉・神様について教えてくださっています。

先生が無理矢理そういう人生を生きているかというと、そうでもなく、
神様がどうしたら喜ばれるか、どうしたらより神様の喜びになるのか研究し、次元を上げ続けています。無から有を作り出す精神。その根本は、ひたすら神様への感謝と愛。

先生がご自身の故郷を今は世界中から人が訪れる場所になるよう開発されましたが、先生が若いころは逃げ出したくなるような場所だったと話されていました。
想像を絶する貧しさと、環境。
その中で人生の問題について先生は命がけで祈って、神様とイエス様の愛をもって解かれました。
その先生の精神と先生の人生を通して語られる一言一言が、私自身の解かれなかった人生の問題に染み入りました。

そのように、先生から教えてもらったことを、考えながら、行なってみて
どれだけ本物なのかを摂理の教会が無い山梨で実感している次第です。

考えや行ないを一つずつ直して、私が変わったら、家族も以前と違ってきました。
不思議です。

自分の考えを直して行くときに答えが見つかること。
癒されるべき考えが癒されていく時に、両親に心から感謝ができるようになりました。
そして、敬えるようになりました。

自分の心が辛いとその辛さばかりに足を取られて、ずっと不平不満の心がありました。
どうしてこうなのだろうかと。

出来ないダメだ。という考えで立ち止まって座り込んでいた自分が、出来る・大丈夫だ。
と思えるようになったのは、行なった上で教えてくれるチョンミョンソク先生を知ったからです。

もうだめだ。と思って、投げたしたくなることもあったけれど、
先生が私に見せてくださった事と教えてくださった事が机上の空論ではないので、
自分も自分がすべきことをやった時、生きている甲斐を感じるようになりました。

ただ信じる事が信仰ではなくて、行なって、作っていくこと。
私が摂理で生きる理由は、生きることを教えてもらったからです。
ゆえに、摂理はカルトではありません。

カルトでないと言っている側は何を持って主張をしているのか?
事実実体験をもとにした主張です。

以上、私が申し上げたいところは、
事実とはかけ離れている編集された報道で摂理を恐れる必要はないという事です。

摂理の人々と交流し、実体を正しく把握したことがないまま、
摂理は恐ろしいところだと話される目的が何なのかがわからないですが、
多大な誤解が早く解かれることを心からお祈りします。

「摂理はカルト」という話が実際とかけ離れているのに、あたかも真実かのように情報として存在していることを通して、情報リテラシー教育があまり進んでいないということが懸念されます。
情報を鵜呑みせず、考えて、確認して、判断をすることが日本において老若男女、各自に必要ではないかと思います。

インターネットは誰でも掲載・閲覧できるゆえに、事実とは違う情報を正しい情報として処理されてしまう危険性があると授業で昔習いました。
摂理の実体・事実とは違う情報が列挙されているこの現実から
摂理は「カルトではない」のに、それがさも事実のように認識されているような現状に、不安を感じている方の心が解かれることを願って、この記事を書きました。

私だけではなく、摂理人としてブログを書いている人たちは、摂理の実情・実体・生活が見えるように記事を書いています。読んでくださった方、何か考えること、感じることが、なんらかあるはずです。
それがヤベーなこの人、完全に宗教にはまっている。そういう見方されるならば、
そうでしょうし、理性的かつ素朴な話なんだなと、みたまま受け止めていただける場合もあるでしょう。

自由に感じて、考えていただけたら幸いです。
自分の人生をより良く生きることができるように、
得るべきものを得られるように、良く考えて、後悔も未練もない人生を生きたいですね。

最後まで読んでくださり、心から感謝いたします。

この記事を書いたブロガー

黄雲 kou★un
生まれも育ちも山梨。東京へ通いながら摂理のバイブルスタディを学び、意を決して上京。信仰生活5年の時、想定外にUターンな平信徒アラフォー。中高短大山梨英和。
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