山と私とチョンミョンソク牧師。

こないだのCGMボランティアでお世話になった方に数年ぶりにばったりお会いした際に「今どこに住んでいるの?まさかまだ山梨?」と言われました。

そのまさかでございます。

自分も、いろんな意味で驚いています。
というか、山梨そんなに遠くないっす。

今年に入って、何度か女子会inやまなしをしていますけれど、日帰りなのにたっぷり気分転換が出来てスゴイ良い!とご好評いただいております。

直近の予定としては、日本のテドゥン山と言われる瑞牆山(日本100名山の一つ)に行くかも。
(テドゥン山は摂理の創設者チョンミョンソク牧師が修道生活をした山です)

はじめて登ったときは、登ったものの降りるのが恐くて大変でした(^_^;)準備が甘かったことを激しく後悔しました(^_^;)
クリックすると新しいウィンドウで開きますほくとナビより

今度はちゃんと準備&装備していこうと思いますが、山登りってなにが楽しいのか?って山の気を受けるから!
そして、自然の美しさと厳しさに心打たれるところがイイ!

そんな非日常を楽しむワケなんですけれど、毎回思うのはチョンミョンソク牧師は日常だったんだよなぁって・・・・凍傷になりながら山の峰で祈るとか、懐中電灯とかなく真っ暗な夜中に山登って行くって・・・。そこまで出来るだろうか自分。

一回、夜中の高尾山に登ってみたことがありますが、懐中電灯なしには登れない。というか、普通に恐い。
いろんな意味で恐かったです。

チョンミョンソク牧師だって、恐くなかったはずがないだろう。。。。
気を張り詰めていないと怪我するかもしれないし、山の動物と居合わせるかもしれないし、食料もないし、冬服もちゃんと着ていなかったらしいし、
リアルにありえない。

つまり、そこまで人生について命懸けで答えを求めていたってこと。
その切実さがただの1日だけでなく、10年以上ずっと。

私も人生について、答えというか意味というか、色々神様どうして?と問うことがあったのですが、そこまで問えるか?というよりは、「もういいや」と諦めて死ぬことを考えるしかなかったので、命を懸けて答えを得たこの方の話をまず心開いてちゃんと聞いてみよう!と思ったものでした。
というか、作り話ではない話ってやはり心が動かされます。

作り話じゃないって、どうしてわかるのか?
それは自分の生活、人生のどっかに必ずつながっているからです。
つながっているから、確認ができるんです。
嘘か真か、ねつ造か。

なので、そんなかんじで気が付いたら毎週、今も通っています。

ぶっちゃけが極まると何が起こるか。

教会合宿に行ってきました。

約3年ぶりの合宿は、長老や牧会者のぶっちゃけから互いが思っていること、感じていた問題点を率直に向き合える機会になったので非常に良かったと思います。

「自分って特にいてもいなくても同じ?」って思う瞬間があったと言う話をある教役者の方がおっしゃっていて、なんと!わたしも10数年同じことたびたび思っていましたよ!と意外な発見をしました。
結局、どんな立場だとしても考えによる患難が大きいのだなと思いました。

自分の救い・自分の喜びとは一体何なんだろうね。
その根本について顧みては「そうだ!」と思い直すこと年に数回ほど私もあると思います。

そして、アサーティブに話すってイイなと思いましたあらためて。
自分が感じていることを否定したり押さえこんだりせずに、表現することってだいじだなと。

聖書に「キリストが頭であり私たちは手足だ」とあり、手が足の役割出来ないように、各自それぞれが非常に大事な一部なんだということ説かれているあの聖句を思い出す合宿でした。

自分が出来ることからやってみよう。
より良くなることって、自分からはじまる。
そう思った合宿でした。