対話しようにもむずかしいけれども、母の日です。

コロナの件で家庭内ソーシャルディスタンスを取っている最中ゆえに
自然発生的に座敷童もとい、子供部屋おばさん(最近こういう名称があると知ったので使ってみました。)の進化系?孤食生活をしております。(がもとより、掃除洗濯も自分の分をやっているのでほぼルームシェア的生活)

もともと食事も普通に作っていましたがすべての時間を一人で食べるって山梨に帰って来てからなかったなそういえば。と、唐突に始まった新しい習慣?!もしかするとこのままずっと続くかもしれないくらい、自分のタイミングで食事するって楽!が7割、ほんのり寂しい2割、母の手料理ってやっぱ😋すごいな。恋しいぜ!が1割。

さて、5/8は韓国は国上げての「父母の日」(両親に感謝と愛を伝える日)のため、やはりチョンミョンソク総会長牧師先生は
この日にちなんで地上の親、天上の親について、大切にし敬い仕えることについて、ご自身の体験を通して説いてくださったのですが、こんな状況のワタクシ故にまことに沁みいりました。。。🐜

「親も子もお互いのことがわかったらすごく喜びます。しかし、思想・考えが違う。
時には、違うことを心が違うことを主張することがありますがそれが親の立場、子供の立場あるからです。」

ホンマにそれ。。。
母を否定したいわけではなく、それってどうなの?と問いかけているのに、突っぱねられているので・・・もう心も距離が自然とできてしまっているのですが、

「子供として親の立場に努力して合わせていく。まだ親がわかっていないときは要領よくやっていかなければなりません。
親と子供のことも研究すること。どのようにして合わせるべきか。」

マジかー研究かぁー😫
合わせるなんて考えてもいなかったので、これは研究しがいがありそうです!
しかし、正直なところ・・・やろう!という気持ちが起きないな~と思っていたところ・・・
チョンミョンソク総会長牧師先生のご自身のお話にとどめ⚡を刺されました。。。

「うちの母も、あなた私の心をかき回してしまう。と言われました。
そのように計画をしたわけではないので、そんな風に言うのか?と思いましたが親の立場では愛しているからひどく傷つくのです。親の心も研究をすればわかります。親の気持ちを研究すればわかります。

親が死んでから、生前よくしてあげられなかった
そんなことを言わないように、全部やるべきことやったといえるくらいにしなければならない。
あれが出来なかった、ということがあってはいけません。親に上手く仕えられなかった人が言うことです。
他の兄弟より喧嘩も口論もしましたほかの兄弟よりもいつもよく仕えて差し上げました。
神様という親にもそのようにして生きるべきだということです。
数十万回ぶつかっても神様は笑顔で接してくださり続けました。
親がいるということは幸せなことです。なくなっても親がいたことが幸せなことです。
一緒に仕えてお供して生きることが幸せなことだ。
親がいてもいなくても、変わることなく仕えて生きればいいのです。
親が肉が死んでも霊がいるから。
いつも仕えてあげて祈って生きていけばいいのです。
天でもどこに行ってもいつも祈ってあげることだ。
それが、ものすごい影響力があります。生きているときも同じです。

 父母の日に子供たちに一つ言いたいことがあります。親は年を取ると子供になります。
幼子になる。どうしてか?体も力も、考えも弱くなって頼ろうとします。
子供に頼るようになります。
だから、年を取った親には大きいことも小さいこともしなければなりません。
先生もしてあげました全部。どこどこ行っていたなど、一日中何をしたかを話してあげました。(以下、略)」(個人的な記録なので正確性は欠けていることご了承ください)

チョンミョンソク牧師先生は毎度こういう家族行事の際に、家族愛とは。。。を説いてくださるのですが、

そのたびにじーんとします。

そして今回は特に、「だれか」にでなく、「私」に神様が先生を通して語られていらっしゃるようなかんじがし
遠くはない未来のことまで考えて、後悔なく生きなければと改めて気が引き締まりました。

ひとまずは、、、、
母の日をよい機会としてつかんで
研究を重ねようと思います。

どういう時に神様をかんじるか。

凹む時。憤るしかない時。憎しみが湧く時。
そんないわゆる『負』の時に、私は神様がいらっしゃるのを感じます。

なぜか?

わたしだけならば、再現なく負のループに落ちていくしかないのですが、
起き上がるのが難しい時も、ほふく前進でも行く前に進む力をもらえる
憤り憎しみとは違う感情と考えをもらえたりするからです。

今日まさにそれでした。

せっかくご飯つくって、提供しても、気に入らないことがあれば怒られる。。。
という事があり、つい私もキレる。という事態が起きました。

でも昔とは違う。

どこが?というと・・・
感情のままにわめきちらし、あたり散らすことはせず、皮一つでつながっている理性が「どうしてこうなったんだろう?」と冷静に神様にジャッジを求めるからです。

神様の審判はどのようにされるのか?というと・・・
今回私がよくなかった直すべき点は「めんどくさいからテキトー」に盛り付けをした。
ということ。

くしくも、今週は「装おうこと(作ること)」真心こめてよく行なうことを主日礼拝で教えてもらった週にもかかわらず、
洗い物が少なくなるようにと、通常のご飯茶碗に丼物形式で盛り付けてしまったコトでした。

肉が好きだからイイよね大きくても。と外観の美しさを無視して、乗っけてしまった勝手な親切が、食欲を無くさせてしまったようです。
この点、私の非を認めて父に侘びました。

しかし、勝手に怒り出すのはいかがなものだろうか?
そこのところ、どうなのだろうか?
と、私は思ってしまい・・・神様に尋ね求めました。

その答えは、私にとって父がどうこうではなくて、私自身がもっと気づくべきことを気づかせてもらうことになり、気づいてよかった。。。
と、「感謝」へと転換するようになり、今は雨上がりのような気持ちです。

最近、職探しをしておりますが、笑顔で否定的なことを言われること日常茶飯事です。

神様の視点をよく知らなかった時は、いつもそのコトバの凶器により思いのほか深手の傷を得ていました。
今は、チョンミョンソク牧師がいつも実践したことを話してくれた「無から有を創造する神様」がどんな感じで人間と共に行なわれるのか?
それが防御膜になっています。

ただの、思い込みではなく、教えてもらったコトを何かしら、わたしもやってみたところ・・・
肯定的な考えという腕で抱きしめてくれる神様を知るようになりました。

少なからず、こういった「神業」を経験したことがあるから、
「もう無理。」これが口癖で、いつも死ぬことで解決しようとしていた私が、派遣でいろんな会社で渡り歩いて生存してきたことは、どうであれ奇跡なんです。

家族間でも傷つけ合っていたので、家にいても苦しいし、学校でも私はいないような存在だし、人間が苦手というか自分含めて人嫌いでした。
ですが、今は人間に関わるのが面白いと思えるようになっていることに最近、気がつきました。

なのでどうであれ、自分ここまで変わったらまだいけるんじゃ?と思うわけです。

悲しい気持ち、ツライ気持ちになることが起こっても、
自分も家族もまだまだ平和に過ごすことが出来ないとしても、
神様どうか教えて下さい。
と、願い求めていけば、神様は肯定的な考えと愛を教えてくれて、乗り越えていけそうな感じになるんです。