どうにもならぬ時を超える、そのチカラその味。

たとえば、近しい関係。
そう家族とか。家族とか。家族。
家族ほど、むずかしくどうにもならないもどかしさ、苦しさを味わうのは多分、私だけではないはずだとおもっておりましたが、たまたま最近ご両親と過ごす中でまさにそういう時を過ごした。というお話を伺うことがありました。

食事を作ってさぁ食べようとしたときに、何かが気に入らないお父さん。
あからさまな苦々しいお顔。せっかく作ったのに、それはないでしょう。という気持ちと、それでも口には出さずに苦い顔で食べてはいるので、まぁよいとしなければという気持ちが激しくぶつかり混ざり合いになり、皮肉な言葉をなにかぶつけたくなる衝動をなんとか抑えるのに必死だったそうです。

棘のある一言を言うことは簡単かつ、言ったらすっきりする。
しかし、言った途端に夕食の時間は穏やかなものではなくなり後悔するような気持になるのは容易に想像がつく。だからこそ、吐き出しそうになる言葉をぐっと飲みこみつつ、ひたすら「神様!どうかこの状況をどうにかしてください!!自分の力ではどうにもできないです!!!」と呼び求め続けたそうです。

そして、どうなったと思いますか?
お父さんの苦々しい顔も、お父さんのその様子をみて何か言いたくなる衝動を抑えることやそういう感情が湧いてくることへの苦しさでいっぱいだったその方も、いっぺんに転換する出来事が起きたそうです。

ご両親が嫌いな「ナメクジ」が家の中に入ってきてしまっていることにふと視線の端にとらえたところから、ナメクジ対処に大騒ぎしながら一致団結が起きて重苦しい空気が一気に吹き飛んだそうです。

なんだ、いい偶然が起きてよかったじゃないか。そう思う方が多いかもしれませんが、偶然は必然という言葉もあるように、偶然だとしても、気づかなければそういう流れも起きなかったわけです。特に激しい憤りが心に生じているときなど気づくのはむずかしいはず。

人間が先に神様を呼び求めること。かならず、神様は働きかけてくださる。
その味をもってやはり神様は助けてくださる!!という味で、信仰っていいなぁと思ったという話を聞きながら、たしかに自分の力ではどうにもできないというときこそ、心の底から呼び求めるときに、神様の御働きをかんじるよね~と盛り上がりました。

神様を呼び求めるとかならず、心考えに働きかけてくださる。日々の中でこういう自分の力ではできないという場面を、神様とともに変えていく。それはちいさいけれども、本当に大きなことだよなあと、気づかせていただきました。

なぜならば自分の考えと次元では、本当に自分が嫌になることばかりだからです。
過ぎてしまえば、そうだ笑い飛ばしていけることかもしれないよね。
と、そういう気持ちや違った観点が生じます。

自分の考えから抜け出す。それはほんとに、困難そのものですが神様を呼び求めることで、
新しい景色を見ることができる。
それが信仰の味だなとあらためてうれしさと喜びを一緒に分かち合ったのでした。