仕事帰り、私は電車の時間までお茶でも飲もうと甲府駅北口のよっちゃばれ広場のベンチに腰を掛けていた。

すると、左方側の視界から程よい距離を保ちつつも間合いを詰めてくる男女二人に声をかけられた。
「今年はコロナ大変でしたよね。というか、今も不安や心配でいっぱいじゃないですか?でも、パンデミックって全部予言されていたことなんです。」と軽い口調でありながらも挨拶がてらことのほか重い話始まった。。。

以前も県立図書館あたりで「これ読んでください。いいことが書いてありますから」と新聞っぽいのを渡されたことがあった仏教系の宗教団体の方だった。その時とは違う方だが、やはり何か印刷物を持っていてそれを渡したい様子。。。

こちらの想いも知って欲しいと、お節介ながら正直に「前にも、同じ団体の方から声かけられたことがありますよ。でも、こういうやり方は感じが悪いというか、怖いですよ。」と申し上げた。

寒い中、時間を割いて行うことはすごい労力であることその心意気は認めるにしかないのだが
こちらの状況、心情を知ろうともせずってこれ如何にと。

が、女性いわく

「怖いって、これは勧誘ではなくて事実をお教えしているんですよ。」とのこと。
「しかし、伝え方って大事かもと。」

またつい言ってしまった私に

「じゃ、どんなところが怖いと思ってらっしゃるんですか?」と

私との接点を探ろうじりじり来られるが電車の時間もじりじり差し迫っている状況。というか、とどのつまり相反するしかないだろう私はその予言に関して懇切丁寧に説いていただいてもまったく対象にならない存在であるゆえに、ぶっちゃけてしまおう!と思いきることになった。

「私にとって良いことを教えてくださろうとお声がけしてくださったのだと思いますが、特に不安や恐れは私にはないのです。押しつけられるように言われてしまうのが、引っかかるというか、思ってもいないことを押しつけられるように感じられ気分が悪いというか、こうだと決めつけられるのが怖いなと思いました。何より、私は聖書を学び創造主神様と神様が送ってくださったメシアを信じているので特に不安や心配があまりないからだと思いますが・・・」と出来るだけ柔らかい口調を心がけて伝えてみたところ、

「その、メシアって神なんですよね?」と思いもよらないご質問をいただく想定外な展開が始まってしまったため、つい律義に返答してしまうことに。

「いいえ、イエス様は馬小屋で生まれました。肉体を持った人間です。私たちには肉体のほかに心、精神がありますよね?
心、精神は目に見えませんよね?それらが魂というものであり、また霊があるんです。目に見えない霊魂は、肉体が死んだら霊界に行くようになっているので、その霊魂が天国に行けるようにと導くために送られたのがメシヤなんですよ。
人間の肉体には神様は目に見えない存在です、霊体だから。だから肉体を持ったメシヤを通して伝えるんです。蟻と人間は通じないですよね。だからイエス様は肉体を持った人間でした。」

とメシヤ概論的小話が普通にでてくる自分に年月しみじみ感じていたところ、さらにまだ話が続く畳み掛けがなされた。

「キリスト教は輪廻転生の概念がないですからですよね。私たちの教理では霊界などはない。となっています。」とこれまた唐竹割り的一言を言われ、私がなんで聖書を学び、キリストの名で祈るようになったのか話さなければならない心情に火がついてしまった。

「そうです。そうなんです。輪廻転生の考え方だと、私は人生が苦しすぎて死ぬことばかり考えていました。
だって、生きる意味が、目的が納得できないまま、また食べて寝て、同じことの繰り返しなのだから。たとえそれに意味があるとしても、全く無意味ではないとしても、生きる中で受ける痛みや悲しみが辛すぎる。そう思ったことはありませんか?私はあります。日本に自殺者が多いのは、この人生を生きる意味、目的がわからないからという理由が多いからだという話があります。私自身がそうだったから、ほんとに知ることが大事だと痛感しています。」

そう、だから生きる意味と、目的と生きる甲斐。を感じるように教えてくれる先生に会いたかった。
言葉だけでなくて、人生を通して行いながら見せてくれるような真実な先生に教えてもらいたいと祈った。

「神様の真理と愛を知ると、不安も恐れもないです。自分がうまくできない心配はあるけれど、人生、生活の中でなんでこういうことがあるんだろうか?というその疑問も、聖書を学ぶとわかるようになるんです。それは、一つ一つ確認しながら知っていくからだから、無理がないというか、信じるしかないというか。。。
生きる中で味わう辛さ、悲しみにも意味があり、それも自分を作るための必要な過程になる、生きる甲斐を知っていける。生きる軸になっていくというか
一番大切なこと、愛を説いてくれる存在に会えたことが私にとって救いだったんだと思います。
教理が正しいかどうかということを主張したいということではなくて、ただこの地球、万物、人間がどうして作られ存在しているのか?それは愛なんです。それを知っていくならばマジで感謝しかないんです。
聖書に神は愛である。と書いてありますけれど、ともかく!真理と愛を絶対的に学べることは確かなのでメシヤと愛に興味があれば教会へ!ちょうど来週はクリスマスですしッ!!」と、後半電車の時間が差し迫ったのもあり(田舎の電車は1時間に数本のため逃すといろいろ変わってくるゆえに)巻きも巻きでこちらこそ勧誘じゃないけれども!お勧めしますよ!と返してみたところ

「結構です!」の元気な一言をいただいたので「ですよねッ!寒い中、お疲れ様でしたッ!!」とあいさつをして駅のホームへと向かったのだった。

勧誘とは、自分が願ってもいないし興味もないことを話されて時間を失わせられたと思われるようなやり取りのことなのかもしれない。

あなたにとって良い話ですよと教えてくれようとしても、
話を受ける側が良いと思えない伝え方、内容、つまり話し手側の自己満足が先行する形ならば、それは駅の禁止行為に掲げられている「勧誘行為」になるんだろうなと。。。そんな学び?教訓も得られた。

対話とは、相手を尊重しながら知ろうという尊厳を守る敬いが必要で、相手の心と時間と自分の心と時間が出会ってよかったなと思える創造性がないとほんと残念だ。ゆえに、勧誘とは迷惑行為の別名称しかり。
というか、私がもっと相手の心が豊かになるような返し方すればまた変わったかもしれない。。。まだまだ私の人格やら愛やらが乏しいのも目の当たりにし、反省。

宗教勧誘で嫌な思いをしたことが学生の頃から何度かあったけれど、結局そこには相手の想いだけが一方的にあり、結果、そこに対応していた時間が奪われてしまったような気持ちになったからだと思う。
私も、知らない間にそういうことを起こしてやいないだろうか?と省みることも大切。自戒に至る経験となった。