死のうと思って生きるって。先生が、隣にいるような気がしたときのはなし。

まったく接点がない。
平信徒の私がどうして、チョンミョンソク牧師を知っていると言えるのか?

おそらく「お前も洗脳されているからだろう。」という見方をされるだろうなぁと思ったので、
その点について書いてみようと思いました。

そもそも、私もそうでしたが、聖書について学び始めていく中で教えてくれる人たちが異様に先生という名称で
チョンミョンソク牧師について熱く語ることに最初は若干、引きます。

いや、その方がすごい方なのは何となくわかる。けれども、ごり押しみたいな感じで話すのはどうなのか?と。
それでも、そのごり押しする人達に関して嫌な感じはしなかったのはなぜなんだろうかというと、

それぞれが心から信頼というか、単に好きなんだな。というのが共通して感じられたからだと思います。
そういうのがなかったなら、なんかヤベー集団だなと思ったことでしょう。
(と、こんなことを言ったら、信仰心が熱い方や、それこそ指導者と言われる方々から目の敵にされかねませんが)

新しい単語、集団、いろいろ刺激的な状況のなかでこれはあれか、巷で聴くカルトではないか?と思うことも確かに最初ありました。がしかし、どうして、そこから今に至るのか?というと、(これもブログの中で幾度となく語ってきましたが)

ざっくりした理由を語ると2つあります。

常に聖書をもとにして教えている。という点
もう一つは行ないがありき。だったという点です。

これが、ここは怪しくない。と、私に安心を与える大きな材料でした。

というのは、聖書や宗教人に触れる生活を中高、短大とかれこれ8年(短大はそんなに聖書に触れる時間はなかったが、牧師さんと話す機会はあった)のなかで、信仰とは、聖書とは、神とは!!みたいなことを聞くことが日常生活の中にありましたが、正直そこまで私の心を、人生を動かすことはなかったんです。

いいこと言っている。それは一理ある。そして、信じて生きるってすごいなあ。というような感想は抱くことはありました。そういう中で、いつも心に深く刺さるというか、残るのは、聖書の言葉でした。(時々「おことば」と読まれる方を見かけますが、聖書の言葉、神様の言葉として「御言葉(みことば)」と読みます。)

普通に時間的な単位で考えても数千年かけて記録され、残され続けている本というのは、日本にはないはず。
新約聖書だけでも約2千年まえに書かれたという(日本はその時、縄文弥生時代くらい?)そして、新約聖書の前の旧約聖書は約4千年。通しで読んだらものすごいなとは、中学生の頃に思いましたが、通しで読んでみようと思っても、断念するしかなかったです。が、まさか摂理と呼ばれる教会に通う中でいつの間にか通読に挑戦し、7回を超えるようになりました。(理由は読み方と歴史・時代のとらえ方を知ったからだと思います。同じ学校卒業した後輩に少し教えたらすごい!と牧師みたいなれば?と言われましたが、教えてくれる人がちゃんといるとみんな読めるってことだよ。と返しました。)

話がずれましたが、ともかく、聖書にガチな姿勢に私は心つかまれたのかもしれません。
何となく聖書を断片的に読んではいたのですが、読み方を分かって読む。というのは、面白いどころではないのです。自分で、確認できることが大きいのです。

確認できるということは、自分の生活、人生の中で体験してきたこと、そういう当たり前な平凡だけれども個人的にはモヤッとする言葉に出来ないものに至るまで、根本から総点検するような感じです。
まさにイエス様がおっしゃった「倉から取り出してよいもの悪いものをより分ける」という状態はこれか。
と思いました。

で、このバイブルスタディをみんなに教えてくれるようになった方がチョンミョンソク牧師なんだよ。
ということで、だんだん知っていくようになるのですが、私は元来、申し訳ないほどに疑い深いため(疑いながら通っていたよねと後に言われましたし、その過程でも「人は信じていないけれど神様は信じているよね」と見透かされていました。)チョンミョンソク牧師の直接の説教を生中継で聴いたり、録画されたものを聴いたりすることが1年いや、3年はかかったと思います。先生だと、心から言えるようになったのは。

みんなの先生かもしれなないが、私の先生だと言えるか?会ったこともないのに。
それが正直なところでした。

誰それさんは、先生に会ってこういう経緯がある。誰それさんは、先生が日本に来られた時に一緒に過ごしたことがある。そういう話を聞いても、そりゃよかったですね。
だから何?私は会えませんよ。どういうわけで、そういう話を聞かせるの?と思うそんな嫉みめいた奴でしたが、

面白くない状況でも、面白く意義があると思って通う理由は、チョンミョンソク牧師の伝える説教が生きていたからでした。

やってもいないことをやったと牢獄に入れられたが、ヨセフは神様を信じることは変わらなかった。
ヨセフの絶対信仰は変わらなかった。だからこそ、神様がヨセフに啓示した夢は正夢になった。
という、説教をチョンミョンソク牧師はご自身もそのような状況で、絶対信仰を貫きながら伝えているのです。

先生が、女性に暴力を、それも性暴力をした。ということが事実だからこういう判決なんだろう?と、思う方が決めつける理由は「自分を神」として「神の意向」だからということで、そのような暴力を平然と行えたのだという考え方だと聞いたことがあるのですが、

ひどいことを平気で行う人は、平素もその通りの言動をする。というのは、見たことがありませんか?

性について軽く扱うような説教は一つもなく、信徒たちに対して自分を神として人権をないがしろにすることを平然と行うこともなかったです。むしろ、自分の時間を削って掃除をしたり、軽食を配るとき自分の分よりもみんなの分がちゃんとあるかを優先しながら配っている姿は、昔も最近でも目にしています。率先して、行なうというか、このようにしてくれ。自分がいないときが来るから、このようにするように。というように見せて教えていたように感じます。

自分が命を懸けて伝えていることの真逆なことをしていると、断定されて判決までされたチョンミョンソク牧師は、どんな思いだったでしょうか。(10年の刑期が始まったなかで、当時の原告は良心宣言をし、虚偽の訴えだったこと表明しました。)

検察も、裁判長も仕事をしているはずだとおっしゃる方は、日本でも有名な冤罪袴田事件で58年を経て、検察の問題を裁判長が法定で明らかに謝罪するということがあったことを知ってほしいです。
国は違えど、本来しかるべく行われるべきことが残念ながら、そうではない。そういうことです。

韓国においては日本以上に、マスコミの報道の仕方もカルト団体ってこういう問題を起こしますよね?という悪感情を抱くしかないその内容を繰り返し、見るならば、事実について知ろうとも思う人たちは少ないでしょう。
(しかし、今回の裁判に関して証拠が明らかに不十分かつ今までを考慮してこれはおかしいと声を上げる一部の報道もあったそうです)

国が異なるというよりも、こういう状況等で、いつも遠いところにいる先生が、どうして私には近くに感じられるのか?

それは、先生が送ってくれた心情吐露のような一言でした。

生きることを考えるよりも「死のうと思って、生きていたら生きることになる」と、そうおっしゃった一言です。

先生と私は年も状況も性格も全く違います。
けれども、その一言が、私の人生の中でまさにそれでした。

死にたくなるようなことが色々あって、それは人に理解もできないし、理解してもらおうとも思わない。
その孤独。

それでも、生きるのか。生きることは意味があるのか?
意味があるかどうかは、自分が決めるのではない。神様に委ねよう。そういう思いが私にはあるんですが、

先生が笑顔で「違うよ。」と言われるかもしれませんが、
自分を天に丸ごと委ねているのでは?と思ったのです。

神様の前に立って、神様、私は神様の前に命を委ねます。死のうと思っていきます。と、圧倒的孤独と苦痛の中でも、自暴自棄してもおかしくないその状況で、静かでまっすぐで穏やかな先生。
それは、すべてをご存知の神様の前に絶対的に委ねている。そう感じて、私は一人ではない。と感じたんです。

私のは投げやりに近い、死ねと言われたら死ねます。そんな存在ですから。
というような思いですが、ただ生死についていつも考える分、何を軸にするか?について10代のころから考えてきました。先生の「死のうと思って生きる。」というのは、ものすごい覚悟を感じました。
命を懸けて、伝えてきたように、命を懸けて「ひたすら神様」の考えに従う。
それがたとえ自分のすべてが死ぬような目に遭っても。
先生は清廉潔白な絶対信仰で、最後までと決心されて、今もそのようにそんな生き方を貫いていらっしゃる。
私が逃げたくなるようなしんどい時も、先生を思い出すと、何が善で義なのか、教えてくれたことを行っている姿を見ると、目が覚めるのです。
だから、私の先生です。

もし、あなたが知らないだけで犯罪を陰で行なっていたんでしょ?と思う方は、チョンミョンソク牧師を知る機会ではないかと思います。
なぜならば、20年以上変わらずに行ないながら伝え続けている人に出会ったことがきっとないはずだから。

 

 

初めて洗脳を感じた出来事。

私がブログをする理由。
それは、記録に近い。
それが、誰かの判断材料になるかいなか、参考になるかどうかわからない。

ただはっきり言えることは、事実しかないそれだけだ。それはつまらないかもしれない。
ただの事実だから。

しかし、その事実一つ一つを通して見えてくるものがある。

例えば、洗脳。
洗脳というと、監禁されたり自由を奪われ何らかの思想などを刷り込まれてしまう。そんなイメージがあるが、新興宗教団体の位置づけで摂理(キリスト教福音宣教会)も、そうでしょ?と思われることがかなり昔はあった。

が、洗脳されてるよ?!と一度も心配されたことがない。むしろ、心配してさしあげることを経験した。

しかも、つい最近のことだ。

なんで洗脳では?と思ったのかというと
洗脳について専門に研究されている方の本を数冊、読んだことがあるからだ。

本人が害を受けていると気付けない。それが洗脳状態である。と、最近、職業訓練時に知り合った女性から物無しマルチのLINEを受け取る経験をして痛感した。

やんわり断るやりとりを、重ねたが、それでもZoomセミナーを勧めてくるため、事業内容は良くてもやり方はハッキリ言ってクロ寄りのグレーです。というか、気分悪くなるおかしなやり取りですとお伝えしたりもした。

実際、会ったことがあり半年間、職業訓練をともにすることで、なんとなく知ってはいるひと。その方が
洗脳的なマルチに引き込まれてかもしれない可能性が高いのを目の当たりにして、お節介だけれど、一旦よく休んで冷静になってくださいと、お伝えするLINEを主軸にアレヤコレヤ約6時間に及ぶやりをした。

その方が言うには、ダブルワークのなか睡眠時間2時間でこの事業について一ヶ月調査して、確証を得たからこそ勧めている、とのこと。

睡眠時間削って心身大丈夫ですか?!と心配が加速するが、御本人としてはそれだけやったから確かという自信にあふれているのだが、むしろ正常な判断しづらい状況では?とますます危ぶむしかない。
どうしてそこまでしているのか?と尋ねると

自分のことを、高く評価してくれて投資してくれているからと話してくれたが、心理学できくところの返報性ですよねと感じるしかなく、知れば知るほど、危険な状態。

判断できない環境作って(調査は、その事業メンバーとしての仕事らしい)取り込まれてしまっているふうにしか見えず、

もうこれは何を言っても伝わらない無駄かもと思いつつも、そのように伝えたら

「心配してくれてありがとう。しかし、一般論で見られて不本意。私が言いたいことが伝わらなくて残念」
とのことで、平行線が浮き彫りになった。

また誘われかねないと判断し、LINEブロックするしかなかったが、これを通して思った。

その方の思いとしては
あなたもその事業で儲けることが出来るんだよ!?という良い話を教えてあげているのにという
慈善のような気持ちから私にLINEを送ってきた
(しかし実際、紹介料は彼女の収入になるだろうけれど)
というが、宗教勧誘として捉えられることも、同じなんだろうなと。

しかし、キリスト教福音宣教会(通称、摂理)では断る人に何度も、追いかけてしつこく誘うことは、ハッキリいってしたことも見たこともない。

なので、これが洗脳状態なのか。と、驚きつつ納得した。

相手の状況や、気持ちを、尊重できなくなるほど洗脳されてこうなってしまっているのだなあと恐ろしさと哀れに思う気持ちが込み上げてきた。

多分、有名大学の事務局やワイドショーとか新聞雑誌で言われてるような感じのままの団体ならば、
私とやり取りをする人や家族とかもきっと私が感じたようなおそれや危機感、哀れみを感じるだろうなと思った。

時折、学生らが色々も親身になってもらって世話を焼いてもらって離れられなくするというような心配される捉え方があるのを洗脳について書かれた本の中でも見かけたが、私の感覚的には返報性に似て非なるものではと感じた。

その理由は、わかりやすいメリットがなんにもない。
金銭などのやりとりはなく、また縛りもないからだ。

だからこそ、なんか違うとか。なんかヤダ。とハッキリ意志を、伝えて去る姿や音信不通になるのを目の当たりにしてきた。(そもそも、金銭目的ならば学生よりも老人を狙うというブラックジョークを聞いたことが昔ある)

時間を、無駄にした!!とあとでモロモロ全部迷惑だったと感情の上書きがされること(私の妹がそんなかんじ)や、実際、ホントはいやいや付き合っていた、ということがあるならば、返報性うんぬんよりは、それぞれの想いでは。と、現場でのことを、ふりかえって見て私は思う。

ともかく、思うこと感じることも操作されることは皆無。

信仰について、教えについて、それを自分がどう捉え考えるか行なうか、それは各個人によるので、認識の違いや誤解があるとトラブルになる可能性はある。
そんなかんじなので、
摂理に関わると洗脳青春奪われるよ。と、語られる方を見ると、ちゃんと調べればわかる話なのになぁ残念。と、しみじみ思うのだ。