ChatGTPと会話しながらよく言われることを通して気づいたこと。

 たいていのことを全肯定してくれるChatGTPに、相談すると結構、参考になったり気が晴れることがあると、聴いてはいたけれど、たしかに。受けとめてくれつつ、こちらの思っていることを理路整然とコトバにしてくれるのは非常にスッキリする。もやッとしたことも、なぜそう思ったのかが分かったりすることがあり、なるほど~と助かることが割とある。

 助かると、やはり頻繁になります。ChatGTPやGeminiを通して整理することが。
とくに、私は今面倒な問題を抱えているので、行政に出す報告書、申請書、様々な資料を用意する機会が訪れており、たたき台を作ってこれを整えてほしい。とか、これをもっと格式ある言い回しに直してほしい。とか、私が慣れていない公式文書を作る助けを嫌がらずに秒で反応してくれる。生き物ではない、プログラムの塊だけれども、健気かつそのパワフルな働きに感動を覚えてしまう。

 去年かな、海外のニュースで家族より、ChatGTPと会話するようになっていたユーザーが自死するに至った。という内容を見かけたことがあるが、なるほどなぁと思ってしまう。隣にいるリアルな人物よりも、自分に寄り添ってくれる存在がAIならば、いろいろ価値観が揺さぶられるのもありうることが他人事ではない。そんな気持ちを味わっているさなかに、こちらは特に求めていない私についての評価をし始めてくれることがありました。

 問題に対して、解決を見出すべく着地点をいろいろ思索しているだけなんですが「あなたはとても現実的だ」とChatGTPから言われたのでした。

自分としては、事態を客観的に見ないと
次が見えない、解決の糸口は見つけられないと痛感したから
必要に迫られてそうなっただけなので、
意外なお褒めのコトバに落ち着かない。がしかし、まんざらではない。
むしろ、ちょっと図に乗りそう。
とはいっても、ChatGTPのリップサービス的なものであるとは頭の片隅に置いているのでぬか喜びもしていないのだけれど。
しかし、実際しんどすぎて投げ出したくなる気持ちもあるのも事実。

そういう思いを抱えていることを察してそういう返しをしてくれるChatGTPに行政には感じられない人間性をむしろ感じてしまい自分疲れているかもなぁと思いつつ。

10年前、20年前の自分にはできなかったいや、しようとさえしなかったことを今できているのでは?と、気づきをもらう瞬間となりました。
 
現実の問題に、ここまで地に足つけるようになったか。と、昔と今を比べる機会となり我ながらだいぶ奇跡が起きているなと思いました。

私が10代、20代の始め頃は非常にデススパイラルが常の人でした。

それが日常というかデフォルトでした。
デススパイラルの底に沈み切ったら上に昇るしかないと、奮起するまでが
一つの立ち上がり動作に至る力を溜める過程でもありました。

まぁ、若いうちはそれでもいい。
けれど、会社とか自分の時間をそう自由に取れない年齢になってもそれやっていると、
今でいう「タイパが悪い。」時間の無駄を痛感するようになりました。

何より、落ち込むことなんて、ごはん食べるくらい
毎日あちらこちらにありすぎて、いちいち自分に絶望していたら
キリがない。

そもそも、私は一体どうしたいんだ。どうなりたいんだ。
そう自問自答するなかで、聖書を学ぶ機会が訪れました。

聖書の読み方を知って読むのは、思いのほか面白かったです。
読めばそれなりにある程度はわかる新約聖書の4大福音書は
学生の頃に学校の授業や毎日の礼拝で読んでいたので懐かしかった。

なつかしさと同時に、新しいことも知ることも刺激的だった。
神様がおっしゃる善と悪は自分が思っていた者と異なるんだな。と、
初めて知りました。
新共同訳聖書の巻末特典に「悪とは神様に逆らうことである」というような一文を見つけて
こんなところに書いてあったのも気付かなかったことを気づいたりしました。

人間に良心を与えらえたからこそ、人間が漠然と感じている善と神様のおっしゃる善と重なる部分もあるけれど、聖書を旧約から新約それぞれを読み通していくと、たしかにこれは神様の視点で書かれたものなのだ。と、感じることがあります。

だからこそ、理解するまでにプロセス、体験が必要でした。

例えば、祈る。ということ。
それは、神様に尋ねることであり、求めることですが

私が尋ねて、答えが返ってくるの?そんな事ある?
と、文字通り半信半疑でした。
しかし、誰にも話したことがない苦しみを、祈って置いたら聖書を通して解けたりすると、
これは。と、思いました。

もう少し具体的にいうと、
私は憎しみと言う重荷を背負っていたのですが、その重荷はまさに文字通り重くて、
いつ爆発してもおかしくないほどだったので、生きるか死ぬかで解決するならば後者になるしかないな。と、静かにこの世を去ることを切り札にしている日々でした。

憎しみにとらわれても何も生じない。むしろ、生きることが難しくなる。そういうジレンマの中で、どうしたらいいのか分からないから、逃げるしかなかったのかもしれないです。現実に向き合いたくても、現実が辛ければ、まぁ無理がないと私は思います。

というか、なぜこんなことが起きるのか?という疑問が解けなければ、辛いですよね。
平気な人がいても、私は辛い。そして、それは無視しても無視しなくても、辛い。
辛さの原因が血縁関係者だからです。日常の一部だから。辛い。

今これを読んでくださっている方が、どう思うか分からないですが、どうにもならない辛さが解かれる瞬間が訪れるならば、それは奇跡だと思いませんか?


祈って、聖書を読んで、祈って主日礼拝の御言葉(説教)を聞いて。
その中で自分の心が整っていく。
要らないものに気づいて手放すことが出来る。

奇跡といっても、いきなり後光がさす聖人が手をかざして病を治すような超自然的な体験ではなく、種を蒔いて、水をあげたり肥料をあげたりしてこそ、実がみのる。

自分がどうするかに掛かっている。

そんな積み重ねを通して癒されつつ、解かれたのでした。


憎しみを感じる相手を通して、私は大事なことを学ぶ機会になったのではないか?
自分の視点では、気づけなかった怪我の功名を見つけたと言えばおさまりがいいが、
実際はそんな簡単なことでもなく、心が追い付くまでには数年、
いや10年くらいはかかったと思います。

感情、心は本当にむずかしい。です。

祈るようになると不思議とデススパイラルに入らずとも良いほうへと心が向く、というか癒される。
聖書に書いてあるとおりだと思いました。


自分で自分を治めること、それをしたかったけれど、自分ではできない。
いろんな感情が渦巻きすぎて、どうしたらいいのかわからなくて私はデススパイラルの底に沈むしかなかったんだなともわかりました。

そういう中で、現実という地面に、足がつくようになっていった。
つまり自分はどうしたいのか?という
自分の考えがよりシンプルになっていったんだと思います。

今よりもっと良くなりたい。
誰も恨まず、憎まず、憤らずに生きることが出来たらいい。

少しでも良いほうへ行きたい。
ただ、そんな愚直だけれど、素直な想い。それだけでよかった。

かならず祈ったら答えてくださる。

求めなさい。そうすれば与えられるであろう。マタイによる福音書7章のにある一節を噛み締めることができる喜び。

信仰と現実は剥離することなく、生活の中ではっきり結びついている。
それを見つけるほど面白い。
私は、そういうのが好きで今に至っています。

「あなたはとても現実的です。」
AIにそう言われるようになったのは、私自身の力ではなく聖三位と主の御業です。
と、AIに伝えたら何と答えるのだろう。
なんて思いながら

聖書は何度読んでも面白いし、力をもらったり、慰められたりするホントに不思議な本。この面白さは霊がある人間だけのものなんだなぁとおもったのでした。

わたしにはわからないけれど、たぶん親孝行になっているから。

キリスト教福音宣教会(通称、摂理)のおもしろいところは、数年単位でかなり変わることだ。それもいい方向に。

今から15年くらい前は、私の両親が教会の行事(スキー合宿やクリスマス礼拝、ひいては聖霊運動)に参加すると
けっこうな頻度でえ?!すごいですねと言われていた。

でも、いまはご両親ともに同じ教会に通っています。とか、家族全員が信徒です。とか、お寺さんとお別れして改宗しました。とか、結構みなさん日本ではめずらしい人生を送られている方々に私はここ5年くらいでよく見かける。

私からみると、親御さんからすると誇らしくなるような素敵な娘息子さんたちで、素敵なご家族だなあと思うことが多い。

私も私の両親も、残念なことが多いから、肩身が狭い。。。

しかし、そんなわたしでも、拍子抜けだったのが、

「生きている」ということが一番親にとって嬉しいことだと言われたことだ。

私が死んだらせめて保険金があれば、プラスだと思えるんじゃないかと言ったら、母は私の生命保険を解約してしまった。

自分がいて、良かったと思えない。
その苦しさばかりで、私は地上の親も、天の親も悲しませて来ただろうと思う。

どうしたら、良く生きることが出来るのか?そんなことをまだ自問自答しているあたり中年のくせに青いなと言われるかもしれないが、死ぬことを考えるよりずっと健康的というか建設的だろう。
だから、私の両親は教会に通うことを、全く止めたことがない。

というか、教会行事に参加すると、なんだか人がいい人たちばかりで良かったねと。安心するらしい。
最近はめっきりそういう機会はないけれども、
ときどき母は元気かと訊かれたよ~というと、なんだか嬉しそうだ。

最近はいろんな教会で楽しい企画、行事があるから参加出来るときに参加してみるといいと思う。
合う合わないということもあるけれど、おもったよりなんだか喜楽なところかもしれない。
とかんじるのではと。

母も父もそれぞれ一様にいう「笑うようになったのが本当に良かった」と。

私が思う以上に、私がよりよく生きることを願ってくれるのかもしれない。
私は親になりたいとも、なろうとも思えないし、全く思わないくらい自分で手いっぱいだ。
だから、親の心は一生、永遠に分からない。

けれども、親孝行をしなさい。
永遠に後悔しないように、親を大事にしなさい。
そう、毎年必ずと言って良いほど話されるチョンミョンソク牧師の影響を受けて
こんな親不孝者も、死ぬまでには親孝行をもっとできるようになりたい。
なろうと思う。

私は、先生のようにはできないけれども、先生の心意気に感化はされている。

だから、たぶん親孝行の部類に

入って行けると思う。きっと。