終りとはじまり。

スマップが解散して、さみしいと涙する方が日本に溢れているだろうけれど、
新しい活動がそれぞれの個性を伸ばすだろうとコメントしている人がいた。
確かにそうだと思う。
終わることがあって、始まることがある。

明日はとうとう、一年の終わり。
そして、明後日は一年のはじまり。
送旧迎新。

一日の終わりとはじまりを上手くするには、心の整理だとおもう。
そのように、一年の締めくくりとstartも心の整理・掃除ありきだなと改めて思う。

実際、家の大掃除をしながら、できたことできなかったこと、
直すべきこと、思い浮ぶことを神様につげながら
心の掃除もしていく。。。

すげーたりない自分で申し訳なさがぬぐいきれない毎年であるが、
結局、よりよく導いて下さっている、与えてくださっている天に感謝を捧げる、
感謝で結べる一年であることが摂理に来てからの年末年始の味。

いい歳になってきた分、いい味を出したいものです。
と、酉年ゆえに思いながら霊魂肉の掃除に精を出します~。

度肝抜かれた十字架に対する感覚。

摂理は十字架がないからカルトだ、異端だ、と判断をしているあるサイトがあるということを
ふと眼の端にはいるのごとく知った。

実際、どうなのかというと、司会者台に十字架が刻まれているものを使用している摂理の教会もある。

しかし、ばばーんと、大きな十字架を壇上の真ん中にあるか?とういうと、そういうのはあまり見たことがない。。。
(私は日本摂理の教会全部を回ったわけではないのでそういうところもあるかもしれないけれど、あまり聞いたことはない)

どうやら、壇上のど真ん中にどどーんと大きな十字架がないからカルトじゃね?って思って、いってらっしゃるみたいだがが・・・。

さておき、

イエス様の十字架の死を本気で悲しんだチョンミョンソク先生の話を思い出す。

パッションという映画を見たことがある人は想像が少しできるだろうが、
恐ろしい拷問もその肉体はどれだけの苦痛を受けられたか・・・・。
もし、自分の家族か恋人がそのような目にあったらどうだろうか?
胸が引き裂かれるような苦しみを感じるのではないだろうか。

チョン・ミョンソク先生は青年時代にイエス様の死の意味を悟って、あまりにも心が痛くて、悲しくて
3日間泣きながらイエス様のお葬式をしたことがあるそうだ。
わたしは、イエス様をそのように自分の愛する人として迎えて接している先生に衝撃を受けた。

メシヤを待っていたユダヤ人たちが迎えることが出来なかったことをどれほど無念に悲しく思われたのか、
その心情を考えて、悲しむ・・・・そこまでの愛。

世界広しと言えど、なかなかいないのではないだろうか。。。。
カルトかどうか、怪しい団体かどうかを
十字架の大きさ等で判断しなくてもいいんじゃないかな~・・・と一個人の見解でワタクシは思います。