ありえないと思うとき、そんなときどうする?例えば先生があり得ないとき。

 たとえば例えば、夏休み登校日に綿シャツでいたところ、学校指定のポロシャツじゃないから駄目だよと、パンイチ(パンツ一丁)でとがめる生徒指導の先生とか、どう思いますか?
(私の体験ではなく、最近ネットの記事で見かけてびっくりした生徒指導の話)

快か不快か、どちらかというと、後者なはずです。
自分やってることと言っていること違うじゃん。と、腹が立って
その人が言っていることも、その人自体も信用できない気持ちになるのではないでしょうか。

でも、自分もそういうことを、どこかでしている。(私はよく妹に指摘されました。)
誰にでも一度は経験あると思うんです。(自分のことを棚に上げてってやつですね。ほんとに気を付けようと思います。)

ただ先生という肩書があると、ちょっとよくあるよね。とは、流せないのは「先生」という位置だからですよね。きっと。

学ぶ、は「まねる」が起源だと言われていますが、先生に学ぶって先生を真似る。ということ。
つまり、こんな人になりたくない。って思うことが生じたら拒否が発動するのも仕方ないわけ。

そうそう。と思ってくださった方、そうでない方。
いずれにしても、ちょっと訊ねさせてください。

チョンミョンソク牧師は信徒から、「先生」と言われているのは、なんでだと思いますか?

その人に学んでみたいと思わされるところがあるからなんだなと、私は思います。

そもそも、私は人間を信じるのが難しいです。そういう生い立ちだったから。
環境を恨む、生まれてきたことを恨む。そんな輩だったので、恨むしかない。憎むしかない。憤るしかない。
どんな目に遭ったとしても、恨まない。憎まない。赦そうとする。そんな人がいるって驚嘆を通り越して、なんか癒されたんです。

ただ、ないがしろにされる自分もどうであれ生きるに、憤りもなんらか原動力にはなるので、常に怒りが私の心にあったのですが、それだと生きるのは本当に、しんどかった。面白くないし、意味がない。
しかし、わかっていても、変えられない。抜け出せない。そういうどす黒い沼にはまっていました。

「恨まないし、憎まない」そういう考えの存在がいるっていうことは、非常に不思議というか、興味深い、そんなことが本当にあるのか?と確認したくなったのかもしれないです。

チョンミョンソク牧師がまだ若者のころ、好意を抱いた女性の家の手伝い(農作業)をこれ以上なく手伝ってあげたり、プレゼントをしてあげたり、いろいろアプローチをしたけれども、こっぴどく振られた話を(主日礼拝の説教のときにされた録音)を聞いたのが、一番最初だったと思います。

自分の黒歴史を、話すことにも驚きますけれど、その話のオチがなにか?伝えたいことは何か?というと、
「イエス様は神様は、このように人間を愛している。そして報われない思いをしている。」そう悟ったという話でした。

それを悟った。だから、それを悟るために必要な出来事だったのだと。話されていました。

物凄く辛くて、悲しくて、やりきれない思いをイエス様に話していたそうです。そういう距離感が近い対話みたいな祈りをされるというのも斬新というか新鮮に感じましたが、何よりもそういう祈りの中で、イエス様が2000年前に人々から罪びとだと言われたときの心情とは、またそういうイエス様を救い主として送った神様の心情とは、と天の愛と心情を受けることが出来たんだと、本気で語っているその肉声を聴いたとき、体験したことが無い衝撃が走りました。

自分の思いよりも、天の思いを優先することが出来るってどういう生き方をしてきているんだろう。と。

わたしが関わった大人のほとんどは、自分のことが最優先でした。
そして、私も漏れなく、そういう人間になっていることに心底うんざりしてました。
これが人間ならば、なんか生きていても誰にとってもよろしくなく、負の連鎖なんじゃないか。
そういう全方向否定でいた私にとって、チョンミョンソク牧師は未知の存在。
絵空事のように感じ始めていた善を確かに持っているかもしれない人だと思いました。

世の中を斜に構えてみていた私は、チョンミョンソク牧師を観察するような思いで見ていたのかもしれません。
実際に会ったことはないとしても、私が聞き始めた当時というのは、明け方の礼拝の御言葉が毎日2時間とか少なくとも1時間半以上というのが当たり前だった時期だったので、直接会ったことが無いとしてもそういう毎日が半年以上あると、遠くにいるのだとしても、なんだか一緒に生活するような感覚になるものでした。

それはきっと、こぎれいな話とか耳障りの良い話ではなくて、失敗の辛さ、痛み、裏切られた哀しみ、恥ずかしさ、虚しさ、人生のどこかで誰しも感じたことがある瞬間に響く話を赤裸々に、それでも生きるってどういうことなのか必要なことを教えてくれるからなんじゃないかなと思います。

チョンミョンソク牧師が私にとっての「先生」になった瞬間は、劇的というよりは、教えてくれた内容を生活の中で職場で、実践してみたことによって自分が善い変化をした。ということの積み重ねでした。

感謝出来ないようなときにも、感謝をすること。
いつも、どんなときにも神様を呼んでみることで、ありえない奇跡が起こること。
苦手に思っていることを克服すべきならば、助けてくださいと天に助けを求めながらやってみればいい。
出来なければ、方法を変えてやればいい。などなど、

自分では考えつかない、それら一つ一つのことをやってみるときに、何が起こるかというと、
楽しく、嬉しいと思えることが増えていく。
自分の考えという暗い沼から、抜けだすことを教えてもらった。そう、私は抜け出したんだ。
と思えた瞬間に、イエス様が「私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私のくびきはおいやすく、私の荷は軽いから。」とおっしゃった聖句が自分の身に起きていると実感したときがスタートだったと思います。

つい最近、40年以上前、先生が30代後半くらいの映像を見る機会がありましたが、その中でこうおっしゃっていました。

「国を恨まないで、世の中を恨まないで、神様が下さったこの自分の肉体を大事にして、環境を大事にして、民族を大事にして、世界を大事にして・・・そうしていく中で、良くなるから」

そう話されている場面がありました。

これは、先生が考えた言葉ではなくて、先生が祈って、神様が自分に願われていることを受け止めて、そのように生きてみることをしたら、良くなった。恨みたくなるところ、恨まないって、難しいけれど、神様のおっしゃったことだから、神様がおしゃる通りに、大事にすべきものを大事にしよう。あなたたちも、恨みたくなるようなことがあっても、恨まずに、神様が願われることを行おう。そういう、メッセージを伝えているんだなぁと感じました。

そして、先生は40年以上前と変わらない考えで今も生きている。ひどい状況でも同じ生き方をしているのだなと、痛感して、本当に宝石のような人だと思いました。

恨みたくなるようなときに私は、先生を思い出して恨まずに前に進むことができました。
そして、そうできたからこそ、なぜ「恨むな」とおっしゃったのか、ほんの少しだけわかった気がします。

先生から送られて来た最近の明け方の箴言
「全知全能なる神様を信じているからよくなるしかない。
希望をもって、喜んで生きなさい。」

良くなることが予定だとしても、自分が恨みでいっぱいな考えでいると、その良くなるために必要なこと、考え方行動をとることが出来なくなる。それを感じました。
教えてくれた先生に感謝するとともに、先生の状況、今までを考えると希望をもって喜んで生きる。というのは、自分の考えを置いておいて、神様をひたすら仰ぎ見て、ただ正しいこと、真実をご存知の神様を頼る。そういう、まっすぐさ、ひたむきさ、実直さを先生のいままでをみるとそういう単語が思い浮かびます。

がしかし、実際、チョンミョンソク牧師についての世の中の認識は、マスコミの報道が完全に色欲魔の悪人という内容ばかりかつ、それが真実のごとくまかり通っており、また情報操作を疑わない人が大多数。なおかつ、公平な立場で裁判するはずの裁判長さえも、その情報の真偽を確かめることなく、そのマスコミが伝えた内容をもとに結審を進めるかのような先生の状況です。
そういう最中で、希望的な神様の御言葉を素直に受け取れるだろうか?信じることが出来るだろうか?
ふと、考えてみてください。

もし、自分がその立場だったら・・・発狂するか、自殺したほうがましなんじゃと思った人もいませんか?
私は、少なくとも絶望します。
そして、神様を恨むよりは死んだほうがいいので、私を殺してくださいと求めます。

先生ご自身はどうか?というと、
先生が今いる場所について「この世の地獄」という表現をされたことがありますが、
そういう場所に置かれていることについて、明言されてないとしても
「この世の地獄」という言葉にすべてが入っていると思います。
しかし、そのすべてを神様に委ねる。
絶対に、自分の考えでとらえない。

そういう、先生なんです。

状況が変わったら、言動が変わるのはよくある話。
しかし、どんなことが起きても、変わらないというのは、
相当の覚悟をもって生きているからではないかと思ったときに、
やっぱり先生は自他ともに認める神様の新婦。
年数で言うと45年以上、夫婦の歴史でいうと銀婚式のレベルです。
ずっと神様を絶対的に信じて、自分の命を委ねて、生きているんだなぁと思いました。

先生の説教メッセージはイエス様や神様の愛や、何が大事なのか教えてくれますが、
いつでも前提にあるのが「行なった」ことです。

イエス様を信じて、神様を信じて生きたら、こういう人生になった。と、行ないながら伝えるから、老若男女問わず、先生と言って慕われるんだなと、思いましたが、
何よりも、それを通して私自身が癒されるというか、希望を得られるからです。
先生の驚異的に変わらないその姿を通して、本来、人間はこのぐらい純粋に生きることが出来る生き物なのだ。と。
どんな状況でも、神様をイエス様を信じる。愛するというのはこういうことだ。と、先生を見る神様とイエス様はどんなに誇らしい心持でいらっしゃるだろうかと思いました。

先生の今の状況は「この世の地獄」という表現されていることがありましたが、
この世の地獄でどうして、「希望をもって」とか、言えるでしょうか。
自分の身が最高に希望を持てないときに、希望を持てと言える人はどんな人なのか?

この世とは、何か。あの世とは、何か。を知っている。
超越しているというか、完全に知っている人。そういうことなんだなと納得しました。

命の道は狭い。しかし光の道だ。天国まで一人で行っても、
その道はサタンも悪魔も来ることができない。主が前に行かれた道だ。
肉は苦痛と無念さと悔しい目に遭って慟哭する時もあるが、
それでもその道は最後まで行ったらあなたの霊魂が黄金天国に行って永遠に生きる。
その永遠な栄光は肉的な苦痛と比べられない。

2023年9月28日木曜日の明け方の箴言より

個人的意見ですが摂理をカルトだと定義?断定している教授と実父が超似ているんだが。と僭越ながら思いました。職安あるあるとテレビ特集あるあるを添えて。

 リーマンショック前は就職氷河期で、リーマンショック以降は食いつなぐことが大前提で何でもやります出来ることさせてもらえることがあるなられば!みたいにあちらこちらで派遣社員でやってきた私だが、大手企業に35年以上勤続した父からすると、落伍者に過ぎないようで、働いていても「そんなんじゃだめだろ」とまず否定するのだが、求職活動中の私が「失業給付金の申請をしているところで」といったら「そんなものあてにするなんて」と、犯罪者のごとくに言われたのが事の発端。

過去、たしかに、正社員で何とか見つけようと思えば、見つかったのかもしれない。がしかし、学歴によるところもさながら私はもとより引きこもりになりかけていた人だ。というか、摂理で御言葉聴いて、自分の心と考えをどうしたらよく作れるのか?を挑戦し始めなければ、死んでいた可能性が99%、もし生きていたとしても部屋から出られなくなったはず。(NHKの「あさイチ」で引きこもり女性特集していたが、本当に他人事じゃない、わかる話だった。)

生きるか死ぬか、ぎりぎりのところで、じゃ神様が本当にいらっしゃるならば答えてくださいよ!この世の中で、私なんか生きていても意味なんてなさそうですけれど!!と半ば天につば吐くというか、喧嘩腰だった私はなんて罰当たりだろうか。と、もう一人の私は思いながら、バイブルスタディを聞き始めたのが約20年前の話。

 山梨から東京に通うって、いま話してもやっぱ引かれる案件。でもね県内の医療機関ではどうにもならない場合は県外に行くじゃん?そういう話だと思うんですよね。と、すごいクレイジー!もしくは英断しましたね!みたいな反応を毎回されるたびに、心の中でつぶやくのは、誰も知る由もないだろう。

そんなわけで死ぬ死ぬ詐欺だと妹とか言っていたくらいに死にたがりの私が「生きること、とは?」について、これが最後だと向き合い始めたのだ。

で、七転び八起き。東京でも山梨でも私は派遣社員としてあちらこちらで働かせてもらいながら、自分の心と考えについて治すこと、作ることをしていたのだ。人間的な目で見たらそんなものは見えない、分からない。けれども、中小企業から大企業まで、いろんな場所でいろんな人と出会った経験は「大したことないね。責任ないハケンじゃん」と10人中10人に、自分の尺度で全否定されても、心折られない。
あなたが、否定する前に、私自身が私を否定するしかないどうしようもない私が、人も世の中も怖くて無理だと思いながらも一人暮らしを東京で始めた。その中で、泥水を飲むような思いをしたし、悔しいことの方が多い。山梨に帰ってきても、そんなことばかり、だけれど、どうして今も生きているのか?それは生きるってどういうことなのか?それを掴めた。だからそれでよいのだ。誰が何と言おうとも、そんな軽くはない。自信がある。

で、今回の本題なんですけれど

 年齢、学歴、スキルなどからすると応募できるところも少ないうえに、安定した職はまず無理だろう。見つけるまでにも時間もかかる。だから、とりあえず話が進むところで働き始める。といういつものパターン。
そのいつもパターンをいったん止めてみて、職業訓練に申し込んでみようかな。と思ったからだった。
つまり、それなりに考えて挑戦してみようかなと思ったのだが、
社会制度を利用をするのが、怠けている。ダメ人間。そんな風な言い方をする父に、私は、キ・レ・ま・し・た。

職歴に書けるスキルと年齢を見て、いとも簡単に「お前なんてもうだめだ」と否定するのがまるで業務の一環みたいな職安職員あるあるなら、まだ聞き流せるけれども、実の親に「お前なんかダメだ」と言われるほどの私はあなたに迷惑をかけているでしょうか!?無職なのに、父に必要なもの買ってあげたり、光熱費、食費を払っている私は、何者でしょうか?慈善家か?

ひとまず、父は父になりに私について心配しているのだろう。がしかし、どうして否定から入るのか。
これは、あらゆることで言えることなので、もう聞き流そうと思う段階に入ったのだが、
ふと気づいた。
この構造、かの「摂理はカルト」と断定する教授と似ているんじゃないかと。

 父が私のことを心配がゆえに否定するようなことを言ってくる。
しかし、その心配とか、親ゆえの愛情が、なんでだかその言動に感じられない。むしろ全否定にいたたまれない。
まったくもって届きません。

その理由が似ているのでは?と思ったのだ。

どこが?というと、
「あなたが否定する「私の身」になって考えたことはあるのだろうか?」「いや、ないだろうね」という点。

自分の言葉をぶつける相手の立場で考えたことがあるならば、そういうコトバにならないはず。という、あまりにも人として基本的なことではあるが、教授も
偏った情報だけでカルトだと断定的に言われる身になって考えたことが無いんだなぁ。
うちのお父さんと同じ。そう思うに至った。

家族だと、腐れ縁というか、もうどうしようもないというか、愛で赦すしかない。それが行きつく先なんですけれども・・・
赤の他人となると、それが学校の先生やっている方となると、愛で赦せと言う主の教え(イエス様の生き方)があるとしても、
「えーアドバンテージ的にどうなんですか?」と天に文句を言ってしまう気持ちが出てきてしまう。

なぜなら、一応は日本国憲法には、宗教の自由があるわけで。会ったことも対話したこともない人たちだとしても、それなりの人生というか、生活というかがあるわけで。
人権についても、無学な私も小学校で学んでおり、そしてやっぱり教育者にはその程度のことは、大前提で言動もそういうこと踏まえているはずだと、私が勝手に教職というか、そういう立場の方に人徳を勝手に求めてしまっているから、裏切られた感が生じているからかもしれない。(これも勝手な見解、意見による被害妄想よろしくなのかもしれないけれど)

あと、誰かを否定することで自分を肯定するのって、なんかマウントっぽいのでは?と思った。

それはなぜか?というと。
ヤンキーについて論じるために、ヤンキーのパシリ(舎弟、ツカイパシリ)をした教授について知ったから。

 その方は20年ほどそのパシリ生活をしたうえで、ヤンキーの実態についての本を出され、准教授として雇用されるようなったという方で、そういう実践というか時間も費やした厚みのある研究と生き方というか、存在を知ってしまうと(その情報源は高頻度で見ている番組「激レアさんを連れて来た」毎回、勉強なることありオモロイです。)

実践と経験をもって本当の研究をされた方を知ってしまうと、摂理はカルト団体だ。という決め手について、摂理の人たちに関わった際にこんな嫌な目に遭いましたよ!という方々の話だけを聞いてカルトだよね!と単に言い切ってしまうことが、まがりなりにも大学の教授なのに、それでよしとされてしまうのも諸々含めて、遺憾を覚えるが、肩書ゆえにマウントっぽくなるなぁと思った次第。

 しかし、カルトだろう!と、決めつけられる理由、摂理の人に関わって嫌だったな!と思った迷惑行為というか、傷つけたというか、嫌な思いをさせた方々の話について向き合うべきことは確かに必要であると思うし、
そして、何が良くなかったのか?実際、心当たりあることについて反省し、改善をしているのを摂理の内部の人たちを見ていて感じる昨今。

カルトだ!カルトだ!と熱心に断罪されてきたからこそ、そうみられる点について、省みるようになったわけで、そういう意味では、カルトだと断定し続けている人たちのある種の熱心な呼びかけ?も、実際は全く見当違いだとしても、これはある種、役に立っているのかも。(知らんけど)

 ひとまず、取材拒否とかなくって、望まれるならば対話させてください的なスタンスである摂理と言われるキリスト教福音宣教会だから、やみくもに怖がらずにちゃんと研究してもらったほうがいいのでは?と内部の一人である自分は思う。
もし取材なしに、単に今まで通りの情報でカルト(新興宗教)としての扱いであつかうならば、ネットフリックスのような捏造(ドキュメンタリーに見せかけて完全なフィクション)とあんま変わらないなぁと思う。
まぁ、商業ってだれかの利益だから、事実がどうとかはあんまり関係ない。という、これもまた闇が深い話になってくる。。。ので、話を戻すと、

 うちの父みたいに自分の考えで決めつけるのと、カルトについて語る教授がなんだか似通って見えるのは、自分の考えのみで判断しているゆえに偏っている感じがちょっと否めなくなってきている感じがするという話です。

まず大人として本当に人格的ならば、そういう言い方はしないんじゃないかなと。
おばさんになった昨今、きわめて冷静にそう思えるようになり、私の20年は、年数をそれなりにちゃんといくらかは成長したんじゃないかと言える良い20年だったんだと思う。

長くなったので、まとめると

・相手を尊重しないというか、人格否定するような言動は大人とは言えない。ということを父から学んだ話

・いろんな人がいるように、いろんな教授がいるという話。

・教授からカルトだよと言われるところに通って20年たったけれど、より昔よりまともになった気がするけれどどうかな?という話。

以上、3つがポイントのお話でした。