父からイイネと言われた聖句。

最近はめっきり聖書の話をすることがほとんど無くなってしまっているのですが(^_^;)

父にバイブルスタディを伝えていた時期がありました。
何の時にその聖句を紹介したのか忘れてしまったのですが・・・・

この聖句、スゴイ良い!と言って父が気に入って復唱した聖句があります。

イザヤ書40章29節から31節

「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」

その食いつき方が類を見なかったので感動し、
どのあたりが琴線に響いたのか?を尋ねた所・・・

・・・・最近、若い時みたいに出来ないなって。疲れを感じて、年だなってその度に思うんだ。
『壮年の者も疲れ果てて倒れる。しかし主を待ち望むものは新たなる力を得、わしのように翼を張って、のぼることができる。走っても疲れることなく、』そんな風になるっていいなって思った」

そういっていました。

 

おりしも今週の主日礼拝の本文の聖句はイザヤ書のこの聖句。

かつて私も「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。」ここにやはり慰められたというか、希望が湧きました。

似た者親子。というか、力を求める人にはこの聖句ってぐっときますね。たぶん。

こういう聖句でどんな説教が伝えられたのだろうか?と気になる方はCGMキリスト教福音宣教会公式HPへどうぞ!

ちなみに、ワタクシ昨日あたりから体調が思わしくなく、、弱っているため(^_^;)
このような時だからこそ、天を仰ぎなさい。力を与えられるだろう。
とおっしゃっているその一言が、心の真ん中から体全体にジーンとしみわたる週の半ばでございます。

力なく弱っているときって、

自分の考えだと、ここまでだな。とか
どうしようもない、もういいや。とか
いわゆる投げやり的になってしまうことがあったのですが、
いや待てよ!神様がこの状況でどう助けてくれるか待ってみたらどうなの?
そんな問いかけが私の信仰の始まりだったのかもしれません。

「主を待ち望む」とは「天を仰ぐ、見上げる」とは
慕う心だと易しく説いてくれていましたが、ほんとにそうだなと思います。

弱った時、力がない時に、大丈夫だよ!と抱き寄せて下さるような愛。
力を与えて下さるその神様からの愛。
その積み重ねが、「私は知っています!信じています。」という慕う心になるんだなと。
たしかに過去色々助けてもらったコトを思い返して、横になりながら感謝しつつ・・・・

やはり
自分の力ではどうにもできない。そう痛感するとき、
そんな時こそ、人知を超えた存在である神様の御働きをリアルに認めるしかないチャンスなのですよね。

あぁ~倒れるまえに、ぜひ体験してもらおう。
父に伝えようと改めて思うのでした。

 

 

 

自分を大切にするって分からない人へ。

大切にするって分からない。
どうしたらいいのか。

そう初めて心底おもったのは15歳くらいだったとおもう。。。

自分を傷つけ、相手も傷つけて、いっそう不毛に陥る。
そんなことばかりだった気がする。

いつ頃からか、自分を痛め傷つける様になって、それが癖になっていた。
だれも止めない分、ひどい有様になる。
10代の成人と呼ばれるまでの5年は10年に匹敵する重みがある気がする。。。

その時に、何を見るか。
何を考えるか。

非常に重要。

かなり妙齢になった分、その頃を思ってそう思う。

たぶん、私は行動の表面に出てこなかっただけで、ひどく病んでいた。
今思うと、10年以上ずっとそんなんだったなと思う。
カウンセリングや心理学の本でだいぶできたけれど、根本的に「生きていていい理由」が見つからなくて苦しかった。

どんな本を読んでも、決定的な納得させられる「説得力」が欠けていた。
だから、生きていても生きている味がしなかった。
そんな残念な人生で申し訳なかった。

だから私が、わざわざ山梨から東京に通っていたその理由(今も実はまた通うことになって長くなったけれど(^_^;)
それは「生きていていい理由」を説得力を持って教えてもらえるからだと言える。

命がどのくらい大切なのか?
自分が生きていていい存在なのか?

それを納得させてほしい。
そんなことを腹の底に抱えながら東京⇔山梨の往復。気づいたら季節が4回変わっていて、私が初めてチョンミョンソク牧師の肉声を聴いたのが2004年だったと思う。

生きること、死ぬこと、それら二つを同じレベルで捉えている。
そういう人だと思った。
自分とは全然境遇はちがうけれど、どうして生きるのか?なぜ生きているのか?それを何千回も命を懸けながら天に尋ね求めたというその経緯が
乾いた心にリンクするように響いた。

いろんな不条理なことがある。
誰かを憎んだり、
環境のせいにしたり、
いろんなことについて腹を立てようとしたら限りがないし、それでいいわけがない。

どうするの、どうしたらいいの?そういう時。
そんな思いで食い入るように聴いていた。
ある時の説教で

—–神様はこういいました。
「あなたの隣人をあなたのように愛しなさい」
イエス様を通して神様がそうおっしゃったから、イエス様がそのように生きたから、私もそのように生きようと思って行ないました。

そういってその時のエピソードを話してくれた。
隣人を愛するその生活は、ある時は馬鹿にされ、誤解され、後ろ指まで刺される。
きっとその時は、恥ずかしかったし悔しかっただろう。
でも、そんな気持ちをみじんも感じさせずにオモシロく話している。
それを聴きながら、自分でも驚くぐらいに目の奥が熱くなった。

カッコイイ話か?っていうと、どちらかというと世の中一般では人に笑われた話、馬鹿にされた話って黒歴史ってやつだろう。
なぜ話すのか?自分を美化するためにもそういう話をしているというわけでもない。。。
何を伝えたいのか耳を澄まして聴いてみた。

「ひたすら神様を愛する」ってこういうことだよ。
神様がおっしゃったとおりに
おこなってみるとね、人生が豊かになったよ。
あなたもやってみたらいい。
今よりずっと幸せな気持ちになるから。

神様を愛して、イエス様を愛しているから、そう行なった。
その姿は、そういうのが愛なんだよって。

そういうかんじの説教だった。

目に見えない神様を信じることって難しいし、、自分にはそんな風にはすぐに出来ないけれど。
失くした何かが戻ってくる感じがした。
もうちょっと、話を聞いてみよう。
そして、自分の生活でやれることからやってみよう。そう思った。

それは今も変わらない。
なぜか?

神様の願うことを「行なう」その人その姿が神様からのメッセージになってる。

え?こんなことあるの?衝撃。
神様が人を通して語られるって、こういうことなんだな。

そんな存在に会えた!プライスレスすぎる!!!と思えてしまったから。

見るものを選択し、考えをよくするってやっぱり大事だ。

自分を嫌いすぎてどうしようもなかった。

愛ってなんなのか分からなかった。

それが過去になっているって

最近気づいた。
小さいけれどもたしかに起きている奇跡を見つけたのだ。

年月重ねたその分、年取った自分が鏡に映っている。
でも不思議なことに、嫌いじゃない。むしろ、なんか大事におもえる。そんな奇跡。

自分のことを大切にするって愛するってどういうことなのか?
いろんな本を読んでも、人に話を聞いても、納得がいかない方には、神様からのメッセージを受け取ってみる機会をお勧めしたい。