個人的意見ですが摂理をカルトだと定義?断定している教授と実父が超似ているんだが。と僭越ながら思いました。職安あるあるとテレビ特集あるあるを添えて。

 リーマンショック前は就職氷河期で、リーマンショック以降は食いつなぐことが大前提で何でもやります出来ることさせてもらえることがあるなられば!みたいにあちらこちらで派遣社員でやってきた私だが、大手企業に35年以上勤続した父からすると、落伍者に過ぎないようで、働いていても「そんなんじゃだめだろ」とまず否定するのだが、求職活動中の私が「失業給付金の申請をしているところで」といったら「そんなものあてにするなんて」と、犯罪者のごとくに言われたのが事の発端。

過去、たしかに、正社員で何とか見つけようと思えば、見つかったのかもしれない。がしかし、学歴によるところもさながら私はもとより引きこもりになりかけていた人だ。というか、摂理で御言葉聴いて、自分の心と考えをどうしたらよく作れるのか?を挑戦し始めなければ、死んでいた可能性が99%、もし生きていたとしても部屋から出られなくなったはず。(NHKの「あさイチ」で引きこもり女性特集していたが、本当に他人事じゃない、わかる話だった。)

生きるか死ぬか、ぎりぎりのところで、じゃ神様が本当にいらっしゃるならば答えてくださいよ!この世の中で、私なんか生きていても意味なんてなさそうですけれど!!と半ば天につば吐くというか、喧嘩腰だった私はなんて罰当たりだろうか。と、もう一人の私は思いながら、バイブルスタディを聞き始めたのが約20年前の話。

 山梨から東京に通うって、いま話してもやっぱ引かれる案件。でもね県内の医療機関ではどうにもならない場合は県外に行くじゃん?そういう話だと思うんですよね。と、すごいクレイジー!もしくは英断しましたね!みたいな反応を毎回されるたびに、心の中でつぶやくのは、誰も知る由もないだろう。

そんなわけで死ぬ死ぬ詐欺だと妹とか言っていたくらいに死にたがりの私が「生きること、とは?」について、これが最後だと向き合い始めたのだ。

で、七転び八起き。東京でも山梨でも私は派遣社員としてあちらこちらで働かせてもらいながら、自分の心と考えについて治すこと、作ることをしていたのだ。人間的な目で見たらそんなものは見えない、分からない。けれども、中小企業から大企業まで、いろんな場所でいろんな人と出会った経験は「大したことないね。責任ないハケンじゃん」と10人中10人に、自分の尺度で全否定されても、心折られない。
あなたが、否定する前に、私自身が私を否定するしかないどうしようもない私が、人も世の中も怖くて無理だと思いながらも一人暮らしを東京で始めた。その中で、泥水を飲むような思いをしたし、悔しいことの方が多い。山梨に帰ってきても、そんなことばかり、だけれど、どうして今も生きているのか?それは生きるってどういうことなのか?それを掴めた。だからそれでよいのだ。誰が何と言おうとも、そんな軽くはない。自信がある。

で、今回の本題なんですけれど

 年齢、学歴、スキルなどからすると応募できるところも少ないうえに、安定した職はまず無理だろう。見つけるまでにも時間もかかる。だから、とりあえず話が進むところで働き始める。といういつものパターン。
そのいつもパターンをいったん止めてみて、職業訓練に申し込んでみようかな。と思ったからだった。
つまり、それなりに考えて挑戦してみようかなと思ったのだが、
社会制度を利用をするのが、怠けている。ダメ人間。そんな風な言い方をする父に、私は、キ・レ・ま・し・た。

職歴に書けるスキルと年齢を見て、いとも簡単に「お前なんてもうだめだ」と否定するのがまるで業務の一環みたいな職安職員あるあるなら、まだ聞き流せるけれども、実の親に「お前なんかダメだ」と言われるほどの私はあなたに迷惑をかけているでしょうか!?無職なのに、父に必要なもの買ってあげたり、光熱費、食費を払っている私は、何者でしょうか?慈善家か?

ひとまず、父は父になりに私について心配しているのだろう。がしかし、どうして否定から入るのか。
これは、あらゆることで言えることなので、もう聞き流そうと思う段階に入ったのだが、
ふと気づいた。
この構造、かの「摂理はカルト」と断定する教授と似ているんじゃないかと。

 父が私のことを心配がゆえに否定するようなことを言ってくる。
しかし、その心配とか、親ゆえの愛情が、なんでだかその言動に感じられない。むしろ全否定にいたたまれない。
まったくもって届きません。

その理由が似ているのでは?と思ったのだ。

どこが?というと、
「あなたが否定する「私の身」になって考えたことはあるのだろうか?」「いや、ないだろうね」という点。

自分の言葉をぶつける相手の立場で考えたことがあるならば、そういうコトバにならないはず。という、あまりにも人として基本的なことではあるが、教授も
偏った情報だけでカルトだと断定的に言われる身になって考えたことが無いんだなぁ。
うちのお父さんと同じ。そう思うに至った。

家族だと、腐れ縁というか、もうどうしようもないというか、愛で赦すしかない。それが行きつく先なんですけれども・・・
赤の他人となると、それが学校の先生やっている方となると、愛で赦せと言う主の教え(イエス様の生き方)があるとしても、
「えーアドバンテージ的にどうなんですか?」と天に文句を言ってしまう気持ちが出てきてしまう。

なぜなら、一応は日本国憲法には、宗教の自由があるわけで。会ったことも対話したこともない人たちだとしても、それなりの人生というか、生活というかがあるわけで。
人権についても、無学な私も小学校で学んでおり、そしてやっぱり教育者にはその程度のことは、大前提で言動もそういうこと踏まえているはずだと、私が勝手に教職というか、そういう立場の方に人徳を勝手に求めてしまっているから、裏切られた感が生じているからかもしれない。(これも勝手な見解、意見による被害妄想よろしくなのかもしれないけれど)

あと、誰かを否定することで自分を肯定するのって、なんかマウントっぽいのでは?と思った。

それはなぜか?というと。
ヤンキーについて論じるために、ヤンキーのパシリ(舎弟、ツカイパシリ)をした教授について知ったから。

 その方は20年ほどそのパシリ生活をしたうえで、ヤンキーの実態についての本を出され、准教授として雇用されるようなったという方で、そういう実践というか時間も費やした厚みのある研究と生き方というか、存在を知ってしまうと(その情報源は高頻度で見ている番組「激レアさんを連れて来た」毎回、勉強なることありオモロイです。)

実践と経験をもって本当の研究をされた方を知ってしまうと、摂理はカルト団体だ。という決め手について、摂理の人たちに関わった際にこんな嫌な目に遭いましたよ!という方々の話だけを聞いてカルトだよね!と単に言い切ってしまうことが、まがりなりにも大学の教授なのに、それでよしとされてしまうのも諸々含めて、遺憾を覚えるが、肩書ゆえにマウントっぽくなるなぁと思った次第。

 しかし、カルトだろう!と、決めつけられる理由、摂理の人に関わって嫌だったな!と思った迷惑行為というか、傷つけたというか、嫌な思いをさせた方々の話について向き合うべきことは確かに必要であると思うし、
そして、何が良くなかったのか?実際、心当たりあることについて反省し、改善をしているのを摂理の内部の人たちを見ていて感じる昨今。

カルトだ!カルトだ!と熱心に断罪されてきたからこそ、そうみられる点について、省みるようになったわけで、そういう意味では、カルトだと断定し続けている人たちのある種の熱心な呼びかけ?も、実際は全く見当違いだとしても、これはある種、役に立っているのかも。(知らんけど)

 ひとまず、取材拒否とかなくって、望まれるならば対話させてください的なスタンスである摂理と言われるキリスト教福音宣教会だから、やみくもに怖がらずにちゃんと研究してもらったほうがいいのでは?と内部の一人である自分は思う。
もし取材なしに、単に今まで通りの情報でカルト(新興宗教)としての扱いであつかうならば、ネットフリックスのような捏造(ドキュメンタリーに見せかけて完全なフィクション)とあんま変わらないなぁと思う。
まぁ、商業ってだれかの利益だから、事実がどうとかはあんまり関係ない。という、これもまた闇が深い話になってくる。。。ので、話を戻すと、

 うちの父みたいに自分の考えで決めつけるのと、カルトについて語る教授がなんだか似通って見えるのは、自分の考えのみで判断しているゆえに偏っている感じがちょっと否めなくなってきている感じがするという話です。

まず大人として本当に人格的ならば、そういう言い方はしないんじゃないかなと。
おばさんになった昨今、きわめて冷静にそう思えるようになり、私の20年は、年数をそれなりにちゃんといくらかは成長したんじゃないかと言える良い20年だったんだと思う。

長くなったので、まとめると

・相手を尊重しないというか、人格否定するような言動は大人とは言えない。ということを父から学んだ話

・いろんな人がいるように、いろんな教授がいるという話。

・教授からカルトだよと言われるところに通って20年たったけれど、より昔よりまともになった気がするけれどどうかな?という話。

以上、3つがポイントのお話でした。

こんなことあるんだ。あるんです。な話。

大阪のお母さん(摂理の信徒のお母さんたち。そして、ご自身も信徒メンバー)と以前の企画でお知り合いになり、引き続き交流させていただいている。

皆さん、三者三様でそれぞれの経緯や個性を知るたびに「神様すごい!」と思うしかない。

そして、そこから力や恵を受ける。(恵を受けるって本当に摂理用語というか、教会界隈でしか使わないよね。)

そんなわけでか、ふと山梨の美味しい桃を送りたくなった。しかし、現状のっぴきならない無職なので、どうなの無理していないか自分?という自分の声との協議が始まるが、現状にあわないのこの考えは、もし天が私に与えた考えだったら?まさか、そんなことあるのか?一体。

そんなこんなで、大阪のお母さんの皆さんに桃送ってもいいですかねと尋ねてみところ。

「お昼休みに美味しい桃を食べてみたいです神様。」と、告げたというお話だった。
やはり、神様は聞かれている。

いつも教会の掃除だけでなく地域のゴミ拾いを頑張っていらっしゃる皆さん。神様に接する通りに神様は接するんだという話を思い出す。

届いた桃を皆さんが喜ばれる姿を見させてもう中で、チョンミョンソク先生の「もらうより、与える喜びの方が大きい。」という一言が思い出されて来た。

先生は何かの集まりだったり、先生の故郷ウォルミョンドンであったり、人々が来たらパンや果物とか韓国のお餅とか、一人一人に配って渡している姿があった。自分の分まで上げてしまったことに後で気づいたと話されているときがあったのも覚えている。どうしてそこまで?と正直すごいなぁと思うけれども、私にはたぶん理解できないままだろうなと思っていたことだった。

でも、今回それが少しかもだけれども、分かった。

それがなんだか嬉しくて。

分からないことが分かるのが、嬉しくて。分からない自分が分かるときが来ることがなんか嬉しくて、泣けた。

先生の故郷、ウォルミョンドンに行くと遠いところから来たからと、もてなしてくれる韓国人メンバーに驚くのは私だけではないはず。

彼らが一様に言うのは「先生がされてるから、先生だったらこうされるから」

でも、初めて会う人に細やかに暑いときに、冷たい飲み物、果物くれることとか、お腹空いたときに食べてねとおやつや軽食くれるなんて、そしてそれを喜びながらするってどういうこと?!すごいとしか言えない。韓国と日本の歴史を知れば知るほどむずかしいことなのにと、思っていた。でも、そういう感情と飛び越えられるのは、飛び越えるだけのものを見たから、受けたから、なんだなと。

その何とも言えない、絶対的なまごころに心が満たされたんだなぁ。
見えない神様の愛を、見える人間がどう行うか?で伝わるっていう。それは、尊いのに、何気なさすぎる。

それって、洗脳じゃない?と思われる方もいるかもしれない。でも、昔の映画「ペイフォワード」という映画にあった「誰かから親切を受けたら、ほかの人にも親切にする。そういう良心の連鎖が広がると良い世の中になるんじゃない?」っていうそういう話と同じ仕組みだから安心してほしい。