大阪のお母さん(摂理の信徒のお母さんたち。そして、ご自身も信徒メンバー)と以前の企画でお知り合いになり、引き続き交流させていただいている。
皆さん、三者三様でそれぞれの経緯や個性を知るたびに「神様すごい!」と思うしかない。
そして、そこから力や恵を受ける。(恵を受けるって本当に摂理用語というか、教会界隈でしか使わないよね。)
そんなわけでか、ふと山梨の美味しい桃を送りたくなった。しかし、現状のっぴきならない無職なので、どうなの無理していないか自分?という自分の声との協議が始まるが、現状にあわないのこの考えは、もし天が私に与えた考えだったら?まさか、そんなことあるのか?一体。
そんなこんなで、大阪のお母さんの皆さんに桃送ってもいいですかねと尋ねてみところ。
「お昼休みに美味しい桃を食べてみたいです神様。」と、告げたというお話だった。
やはり、神様は聞かれている。
いつも教会の掃除だけでなく地域のゴミ拾いを頑張っていらっしゃる皆さん。神様に接する通りに神様は接するんだという話を思い出す。
届いた桃を皆さんが喜ばれる姿を見させてもう中で、チョンミョンソク先生の「もらうより、与える喜びの方が大きい。」という一言が思い出されて来た。
先生は何かの集まりだったり、先生の故郷ウォルミョンドンであったり、人々が来たらパンや果物とか韓国のお餅とか、一人一人に配って渡している姿があった。自分の分まで上げてしまったことに後で気づいたと話されているときがあったのも覚えている。どうしてそこまで?と正直すごいなぁと思うけれども、私にはたぶん理解できないままだろうなと思っていたことだった。
でも、今回それが少しかもだけれども、分かった。
それがなんだか嬉しくて。
分からないことが分かるのが、嬉しくて。分からない自分が分かるときが来ることがなんか嬉しくて、泣けた。
先生の故郷、ウォルミョンドンに行くと遠いところから来たからと、もてなしてくれる韓国人メンバーに驚くのは私だけではないはず。
彼らが一様に言うのは「先生がされてるから、先生だったらこうされるから」
でも、初めて会う人に細やかに暑いときに、冷たい飲み物、果物くれることとか、お腹空いたときに食べてねとおやつや軽食くれるなんて、そしてそれを喜びながらするってどういうこと?!すごいとしか言えない。韓国と日本の歴史を知れば知るほどむずかしいことなのにと、思っていた。でも、そういう感情と飛び越えられるのは、飛び越えるだけのものを見たから、受けたから、なんだなと。
その何とも言えない、絶対的なまごころに心が満たされたんだなぁ。
見えない神様の愛を、見える人間がどう行うか?で伝わるっていう。それは、尊いのに、何気なさすぎる。
それって、洗脳じゃない?と思われる方もいるかもしれない。でも、昔の映画「ペイフォワード」という映画にあった「誰かから親切を受けたら、ほかの人にも親切にする。そういう良心の連鎖が広がると良い世の中になるんじゃない?」っていうそういう話と同じ仕組みだから安心してほしい。