1月1日から15日まで神様へ感謝と栄光を。という栄光週間。今年は、「愛と平和」で栄光帰することについて説いてもらったのがすごく私的には心に響いた。どのようにしたらその愛、その平和を成せるのか?私の考え、人格等では、到底真逆のゆえだから。

わたしには出来ない。だからこそ、教えてくださいと求めた。
求めることが出来ること、それは本当に幸せなことだなぁと求めながらも思った。

昔誰かから、日常でそんな愛と平和から遠いってことあるんですか?と言われたことがある。
そう思えることがうらやましいなと思った。

だいぶ平安になったけれど、私の家は安心して暮らせない家庭だった。(当時はわからず、成人してからいろいろ苦しくて大変だなぁともがいていく中で本やら心理学とか、NPO活動のワークショップやらをとおして納得するに至った)

過呼吸になってもそりゃおかしくなかったわけだなぁと、だいぶ大人になってから理解できた。
その一因は、祖母。家族それぞれに要因があるけれど、一番の元のような要因と言える。
だから、祖母とかかわるのは結構、意を決するというか、過去の色々な出来事から接することが億劫になってしまう自分が正直いる。

昔のように悪態をついたり、罵ることはなくだいぶ穏やかな老婆にはなったけれども、思い出と呼ぶには痛いことがありすぎてどうしたら天に申し訳なくない、愛と平和を成せるのか?いや、私自身には無理としか言えない実情がある。

祖母の人格形成の過程や、祖母自身の家庭環境等に私のようにまたわたし以上に辛いことがあったのかもしれないということ。
だからと言って赦すことはできないし、愛で接することが難しいのがこれまでだった。
けれども、自分も年を取り、また祖母も今まで以上に年を取り、老いと肉体の人生の終わりをまざまざと感じる中で、私たちがどんなに罪深いとしても愛で眺められる天がいらっしゃる。それを感じるしかないのだ。

わたしにはむずかしい愛と平和。それを教えてくださいと願った。

チョンミョンソク牧師がイエス様の愛を実践したくて、家がない人たちの友達になってごはんを作ってあげ寝食共にして過ごした話や、精神疾患でやり取りも難しいような浮浪者を家に連れてきてお風呂へ入れてあげてごはんを食べさせてあげた話とか、いろいろ有名なエピソードがあるけれども私にはそのようには出来ない。

ただ、チョンミョンソク牧師から学べるのは「主がそうされたから自分もそのようにする」実践だ。
無理矢理とかでなく、自分が受けた愛を伝えたい。そういうところから出る実践。過去こうしたという話ではなくて、現在進行形の神様の愛、それはイエス様がこのように教えてくださった。と、実践する信仰。

愛をどれだけ私は知っているのか。
知るようになったのか。
それはわからない。

けれども、私はたしかに癒された。愛を知るようになった。私を存在させてくれる天とともに生きることがどれだけ安心を与えてくれるのか、過ごしてきた日々とその経緯の分、確かなことがどれだけ誇らしく何よりも大切だと。だから、その心で祖母に必要な介助をすることが出来たときに、憎しみ、憤りから一つ解かれて愛と平和を得たと思った。