ちまたでは熟年離婚が増えていると聞いてからだいぶたっているが、常態化しているのかもと感じるのは仕事でお話を伺った70代以上の方の中で4人の男性から「嫁さんが数年前に出て行ってしまった」という話を聞いたから。

晩年になってまさか独り身になるってそれをあけっぴろげに話すというのはいろいろ吹っ切れてしまったゆえの心境からなのかもしれないが、すでに珍しい話ではないからなのかもしれない。

過去、マダム世代の女性から家庭内別居を公言している方、出ていくための準備を虎視眈々というか着実に進めて成し遂げられた方の話も聞いたことがある。(いろんな職場でいろんな人に会っているなぁと改めて思う)

私の両親を見て思うのは、お互い自分の考え、意見を主張して、相手の思い、考えを受け取れないというか受け取らないというか、話をするのは無駄、どうせわからない。と、いうか、聴く耳持っていない!!と互いに言い合っている。のを還暦を迎えてからより見かけるようになったように思う。

対話にならないならば、もう一緒に生活する意味がない。到底無理だ。と見切りをつけて別れるのは仕方ない。こうして離婚に至るしかないのだろうなと、至極当然の流れをまざまざと見せていただきながら納得している。

だから、わたしはわざわざ結婚したいなんて思わない。そんな輩なのだが、どうしてか離婚をしない秘訣を知っている。
それは、信仰生活というものは神様と一緒に生きることだと教えてもらったからだ。
端的にこう表現すると、お前頭大丈夫か?というかんじになるが、具体的に表現すると自分の考えで物事をとらえずに、神様の視点、神様の考え方で見て、行なうそんなかんじ。神様の考え方というのは、単語でいうところの「真理」と「愛」、「善」「慈しみ」「深慮」「平和」「否定的ではない」そういった自分の中にはなかなか見つけにくいものだ。

自分の考えだったら、相手を状況を悪く考えるしかないのだが、神様の考えでとらえられるように祈り求めたり、聖書を通して教えても(いわゆる神様の御言葉)を思い出したり、とにかく自分のレベルではない考え方をもらって対峙し、状況を違った見方でとらえて行くと、乗り越えて行けたり、耐えられたり、そうやって確実に漸進しつつ成長していけるのだ。(しかし、それは簡単ではないことが前提ではある。)

肉体が生きているこの一生を通して、神様の考えに合うように自分をつくること。それはまるで結婚しているようなもの。そう教えてもらったが、たしかにそうだなぁと。自分の考えをちょっと譲るというか、少し横に置いて相手の心、考えを受け止めることができなければ、一緒にいることは、辛くなって出ていくしかない。

本当に、分かりやすい。自分の両親や、出会った人たちの人生の苦痛、苦労話を聞きつつ、一緒に生きる味と喜びについて、その例えはじつに絶妙だなぁと思うのだった。

きょうの信仰生活メモ( ..)φ
「神様とも、祈りという対話がないと、御言葉を聞いてもすごく誤解が出てくる。」