30代前半からゆるく筋トレをし始めたのは、チョンミョンソク牧師が健康管理について再三話されていたことがきっかけだった。

運動することに対してまったく意識がないに等しかったので、なかなか習慣になるまでは時間がかかった。
それでも習慣化されたのは、仕事で体を動かすことが多くなったとき。また、動かなさ過ぎて足が痛くなったことを通してだった。

その経験が機会として大きかったかもしれないが、運動することがどれほど重要かつ大事なのか、体現している70代チョンミョンソク牧師(血管が30代レベルの状態)や60代母(体力測定で20代後半)をみると、こうあるべきだと、身につまされた。
自分に合った形を模索しながら、楽しみを覚える形を見出してから、習慣化されていったと思う。

チョンミョンソク牧師は、人生を通して神様が願われることを行うために健康であるように神様が下さった肉体がどれだけ貴重かをいつも説かれていた。

年を取る分、健康であること、体のどこかに痛みがないことがどれだけありがたいことなのかを感じるようになり
早いうちからチョンミョンソク牧師が人生の生き方を先生として教えてもらえたこと本当にかけがえのないことだったと思う。

なぜならば、「どういう目的か」によって、行なう必要性、行なうときの意思の強度が異なるし、行なう中で得るものもやはり変わってくるからだ。

「なぜ生きるのか?」「生きる意味はなんなのか?」私だけでなく、今の若い人たちもこのテーマについてよく考え、インターネットで検索をかけていると時折きく。

ある新聞記者の方が「社会を見ることは自分をみることであり、自分をみることで社会が見える」と語られていたが、自分という一人の人間が考えること、感じること、それが社会という世界のどこかの一部の小さな存在だとしても、共感でつながるからではないかと思った。

わたしは20年前にくらべてどのくらい「生きる意味」と「生きる目的」についてはっきり知っていると言えるようになっただろうか。

それを体現出来ているか?というと、まだ足りない。申し訳ないほどに、足りなさすぎる。
しかし、そう生きてみたい。
生まれてきてよかったんだと、もっと実感してみたい。

感謝して、喜んで生きること。
それは、思い込みではなく、自分の心と考えと行いを、貴石を磨くように、削るように。
またときとして、自分にないものは天に願い求めて、与えてもらったり、無ければ作る。
それは地味だけれども滋味深いといえる。
大変に感じることも、自分に本当に必要なことならばたしかな手ごたえと甲斐を感じるから。

しかし、まだまだな私だ。
けれども10年前、20年前の自分と今をくらべて、どうであれ今の自分のことを「好きだ」と思えることが本当に幸せだ。と、言い切れるのは、けっこう貴重なことではないかと思う。
思いもしなかった自分になれた。

変わりたくても変われない自分に絶望していた頃の私からすると、夢のような現実を生きていることにきづいて感謝があふれるしかない。
まさかの幸せな中年を生きている。

生きることについて、たゆまず、どんな時にも丁寧に、これ以上ないくらいに、真実に、教えてくれる方に出会えた奇跡を通して、思った。人生とは、目的を考えながら生きることに挑戦することなのかもしれない。