なんて、いったらまた関係各所、内部外部問わずに怒られるかもしれないけれど。
何をもってカルトなのか。何の根拠をもってそう断定できるのか?断定した報道の仕方でいいのか?このご時世に、こんなのあるんだということが逆に笑えてくる。
2000年台に入ってからの10年はテレビ局のやらせ発覚で視聴者は離れた。ということをテレビ局に勤めている方や、評論家的な方々が話しているけれど、おそらくここ5年くらいで明確になってきているのはSNSの普及により個人の意見や知見、好みなどがテレビを介しての情報よりも事実と面白さがある。それが明確になってきているのではと思う。

そして、こういうなんも調べもせずに、何も確認せずに隣の韓国が言うにはカルトである。の使いまわしにより、悪い印象レッテルを貼られた人たちがどんな目に遭うのか?考えていないテレビ局は、ほかでも同じことをしていることであろうから、残念ながら衰退をたどるであろうとおもう。(日本にも摂理はカルトであると言っている教授がいるとは知ってはいるけれども、その人たちも結局は何も知らない。私はそう思う。)

出所してまた同じ罪を繰り返しているということだが、そもそも前の裁判は証拠がなく重刑だった。そんな裁判だったからこそ、これは裁判の在り方として間違っているというか恥ずかしい、判決だと韓国法曹界の恥であると、韓国の法曹界に身を置く方が判決を見て述べられたことはきっと日本のテレビ局は調べていないだろうなぁと、またこちらも恥じ入るしかない。

テレビ局だけではない、普通に社会にかかわって生きていると理不尽なこと、それって人権無視していますよね?あなたに簡単に踏みにじられていいことなど一切ないはずなのに。ということは、大なり小なり起きている。本来そんなことがあってはいけない。そういうことが学校でも起きている。だから、絶望をする。

いろんなことが各個人にあるのが人生。そして、その人生で味わう悲しみ辛さは、本来尊ばれるべき尊厳、人権が簡単にないがしろにされることにあるのではないだろうか。

20代前半から摂理と言われる団体で聖書をとおして、神様、イエス様の愛とは真理とは何かを学ぶようにいなって、自分を大切にする愛するってこういうことだったんだ。と、中年になってようやくわかるようになった私だが、そんなに時間かかってようやくわかってきたくらい。愛とは、そんな簡単なものではないと思う。特に、性欲だけでは愛ではない。動物以下だ。動物はちゃんと責任持つだろうから。だから、天の愛は肉欲ではない。ということイエス様がおっしゃったことを徹底しているチョンミョンソク牧師は、どんなにひどいことを言われても、裏切られても、人格や存在を否定されることがあっても、自分の信じるイエス様と神様の愛を常に忘れない。そういうチョンミョンソク牧師の話す一つ一つの内容が中身空っぽなきれいごとではなくて、痛みや辛さを味わいながらでも生きることを選んできたんだなぁと、死と隣り合わせの幼少、青年期を生きて来たけれど、その中で命がけで生きる意味を天に尋ね続けて来たんだなぁと、私はそう思っている。

チョンミョンソク牧師に一番近いと言われていた方が「チョンミョンソク牧師が異性的な犯罪をしたことがあるんだと思う」ということを漏らしたらしい。という話は私も聞き及んでいる。けれども、私はそう思わない。なぜならば、死が近くにあるようなときに性欲に逃げる人がいるとしても、チョンミョンソク牧師はそうできる環境(ベトナム戦争参戦したとき)にいながらもそうしなかった。また、性欲、肉体的な快楽等で安易に人権を傷つける行為をする人ならば、とっくにそういう考え方、精神思想が話す内容、言葉に現れるはずだからだ。
というのは、私が以前いた職場でひどい言葉のセクハラをする人がいた。その人の仕事のストレスうっぷんを晴らすためにそのようにしているのだと、気づいたとき。また、仕事は出来る人で会社の利益には必要な人だから、見てみぬふりをするそれを知ったとき。これが普通にまかり通るところにいるならば、みんな心を病むしかないだろうなと、納得した。(一人心身の不調で休職中に自死された方がいた。そしてまた、明らかにその言動で仕事にも影響がある女性社員が数名いた)

つまり、何が言いたいか?というと、言葉でいくらでも人を傷つけることができ、殺すことが出来るのだ。
そして、そのように言論、メディアもしかりであると思う。

チョンミョンソク牧師は前の裁判で10年実刑だった。それは社会的に死んだも同然ではないだろうか。殺人と同じレベルの重刑だから、相当悪いことをしたんではないか?と思われるだろう。でも、実際は証拠はなく、また訴訟を起こしていた人たちはのちに撤回をした。(詳しいことはこちらのサイトへ)

そもそも、あの狭くて空調もない場所で夏は蒸し暑さで失神し、冬は寒さに凍えて眠れないような場所、約2畳くらいの狭さでトイレと自分しかないような場所で10年。
何をしていたのか?知っているだろうか。

ずっと信徒たちへ手紙を書いたり、説教原稿を書いたりして、紙に埋もれるような生活をしていた。
その時の説教原稿は私も全部取ってある。そして、何度読み直してもすごいと思う。気迫というか、気力というか、その信仰が。

人には良心があるはず。だから、悪いことをしたら心に引っかかるはず。良心が死んでいなければ。だけれども)語ってきたことと真逆なことをしたらどれだけ恥ずかしいのか。正気であれば、分かるはずだ。また、そんなこと続けられない。聴くほうも、嘘か本当かわかるから。

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韓国は日本から一番近い国。わたしが高校生だった頃は一番近くて遠い国、韓国だった。今は近くて近い国になってきている。けれども、文化風習が結構違うというのは、韓流ドラマを見る方はわかるはず。学歴など、ものすごい重要視する傾向があるらしい。だから、逆に言えば小学校しか出ていないチョンミョンソク牧師にどうして有名大学を出た上流社会で働くエリートと言える人々がついていくのだろうか、やはり只者ではないからなんだろうなと思う人も少なからずいるらしい。ただ、同じ宗教という分野でそれなりに重鎮というか重職である立場(平たくいうと一定の権力を教会内外でも持っているような)からすれば、目障り以外何者ではないだろうと外国人のワタシだからわかる気がする。だって、韓国ってコンビニみたいにキリスト教の教会が立ち並んでいるから。同じイエス様を信じているとしても、一派としての勢力を重視するならば、摂理と呼ばれるこの団体には次世代と呼ばれる若い世代が比較的多い。それがきっと脅威だろうから。

日本で憲法改正に賛成している人たちが6割方いるという調査結果があったらしい。けれども、それは約2千人に対して行った調査だったそうだ。たった2千人で結論を出していいのか?と思うのは私だけだろうか。でも、事実をどう切り取るのか、どう表現するのか、それが自由だというならばそうなのかもしれない。けれども、その結果をもって判断する人たちが一定層、確実にいるならば、情報操作と言えなくはないのでは?と語っている方を目にした。が私もそのように思う。
そして、チョンミョンソク牧師のこの裁判の件、韓国での報道の在り方をみても事実如何よりいかに酷くオカルト的なヤバイ人なのか。という「表現」だけが闊歩している実情も情報操作ではなかろうかと。

お前は何も知らない。そういわれても、私は私が信じていることは主張する。人権ゆえに。

そして、殺すことよりも生かすことが本当にむずかしい。私は、自分自身を見ても思う。

心で人を憎むこと、淫欲を抱くことは、すでにそう行ったのと同じであるとイエス様がおっしゃったが、私はどれだけの人を自分も憎んできただろうか。本当に実際行っていないだけで、思った考えただけでも罪である。というならば、と笑うひともいるかもしれない。けれども、その言葉が引っかかるのは、それほど強く思った自覚があるからだ。私はそれだ。
人殺しだから、生きていても仕方がない。そう思ったといっても過言ではない。死んだほうがいい。と思ったのはそういうことだ。誰かを殺すくらいならば、自分が死のうと思った。でも、生きたくても生きられない人たちがいる。それはどうなんだろうかとか。生きること、それにも意味があるのか問いを抱えながらみんな生きているという考えがよぎって生きるか死ぬかいつも両天秤にかけていた。
だから、私のもとへ来なさい。休ませてあげよう。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。というイエス様の聖書に書かれた言葉が私の心にものすごく響いた。

だから、よくわからない人たちだけれども聖書の勉強をしに、山梨から東京へ通うというクレイジーなことを平気でしたわけだ。でも、すぐに分かったわけではない。理解するまで、納得するまでに時間がそれなりに掛かった。
疑い深い分だけ、かなりかかった。

だから、自分の修了式(聖書の勉強を一通り学んだということ)ではなくて、他人の修了式で、この聖句をもとに修了式のメッセージがあったのだが、「あれ、私いま心が軽くなって生活出来ているのでは?朝が起きたときに、心が辛くないのでは?不安や恐ろしさ、ないのでは?平安になってきたのでは?」と気づかされ実感したときにとめどない熱い涙が流れた。自分がどれだけ、信じるのか、行なうのか?それは本当に人それぞれの責任による。だから、離れるのも簡単であり、信じるのは難しいというか時間がかかる。(もちろん、時間がかからない人たちもいると思う私よりずっと心がいい人たちはみんな易しいだろうとおもう。)

難しかったからこそ、よく確認が出来たわけで、その分私にはかけがえがない、もう二度とない人生を良く生きたと、私は自分で自分に満足している。自分を殺そうとした自分が、自分のことを大切に思えるこの奇跡は、きっとどんなに話してもわかる人はいないだろう。そして、わかってもらおうとも、思わない。
ただ、少しでもわかってほしいと思うことがあるとするならば、死んでいてもおかしくない人がまだ生きているよということ。(いや、ひとによっては死にたけりゃ自信もって死ねと言っている方もいるくらいなので、生きててすみません、かもしれませんが)

死ぬ人を生かすことができますか?
人生懸けて、命を懸けて、伝えたいことはありますか?
イエス様がどんな人だったか、同じくらい苦しい辛い思いをしながら、その中でも、愛とは生きるとは何なのか、伝える人をとおして、私はイエス様を知るようになりました。
イエス様は神様が送ったメシアで、その救いはどんなものなのか?「天国はあなた方のただなかにある」とイエス様がなぜそういったのか?それがわかるようになりました。それはすごいことですが、分からないですよね。
でも、それが私の人生をとおして言える確実な事実なんです。

ただ事実、それだけを、わかってほしい。