凹む時。憤るしかない時。憎しみが湧く時。
そんないわゆる『負』の時に、私は神様がいらっしゃるのを感じます。

なぜか?

わたしだけならば、再現なく負のループに落ちていくしかないのですが、
起き上がるのが難しい時も、ほふく前進でも行く前に進む力をもらえる
憤り憎しみとは違う感情と考えをもらえたりするからです。

今日まさにそれでした。

せっかくご飯つくって、提供しても、気に入らないことがあれば怒られる。。。
という事があり、つい私もキレる。という事態が起きました。

でも昔とは違う。

どこが?というと・・・
感情のままにわめきちらし、あたり散らすことはせず、皮一つでつながっている理性が「どうしてこうなったんだろう?」と冷静に神様にジャッジを求めるからです。

神様の審判はどのようにされるのか?というと・・・
今回私がよくなかった直すべき点は「めんどくさいからテキトー」に盛り付けをした。
ということ。

くしくも、今週は「装おうこと(作ること)」真心こめてよく行なうことを主日礼拝で教えてもらった週にもかかわらず、
洗い物が少なくなるようにと、通常のご飯茶碗に丼物形式で盛り付けてしまったコトでした。

肉が好きだからイイよね大きくても。と外観の美しさを無視して、乗っけてしまった勝手な親切が、食欲を無くさせてしまったようです。
この点、私の非を認めて父に侘びました。

しかし、勝手に怒り出すのはいかがなものだろうか?
そこのところ、どうなのだろうか?
と、私は思ってしまい・・・神様に尋ね求めました。

その答えは、私にとって父がどうこうではなくて、私自身がもっと気づくべきことを気づかせてもらうことになり、気づいてよかった。。。
と、「感謝」へと転換するようになり、今は雨上がりのような気持ちです。

最近、職探しをしておりますが、笑顔で否定的なことを言われること日常茶飯事です。

神様の視点をよく知らなかった時は、いつもそのコトバの凶器により思いのほか深手の傷を得ていました。
今は、チョンミョンソク牧師がいつも実践したことを話してくれた「無から有を創造する神様」がどんな感じで人間と共に行なわれるのか?
それが防御膜になっています。

ただの、思い込みではなく、教えてもらったコトを何かしら、わたしもやってみたところ・・・
肯定的な考えという腕で抱きしめてくれる神様を知るようになりました。

少なからず、こういった「神業」を経験したことがあるから、
「もう無理。」これが口癖で、いつも死ぬことで解決しようとしていた私が、派遣でいろんな会社で渡り歩いて生存してきたことは、どうであれ奇跡なんです。

家族間でも傷つけ合っていたので、家にいても苦しいし、学校でも私はいないような存在だし、人間が苦手というか自分含めて人嫌いでした。
ですが、今は人間に関わるのが面白いと思えるようになっていることに最近、気がつきました。

なのでどうであれ、自分ここまで変わったらまだいけるんじゃ?と思うわけです。

悲しい気持ち、ツライ気持ちになることが起こっても、
自分も家族もまだまだ平和に過ごすことが出来ないとしても、
神様どうか教えて下さい。
と、願い求めていけば、神様は肯定的な考えと愛を教えてくれて、乗り越えていけそうな感じになるんです。