寒くても時が来たから花は咲く。

暦の上では立春だそうで

気象情報サイトでは「立春といっても明日からは寒波の影響で降雪が見込まれるので春と言い難し」というコメント。

たしかに、山梨囲む山々も雪化粧の面々。
降雪予想明日の午後6時ごろまでに甲信越は50センチとのこと。
どのくらい積もるかはゆだねておくとして、雪がある素敵な山に囲まれること請け合いなので、防寒対策しつつインスタストックを狙っております。

雪山って、太陽の光の当たり方で千々万々お色直しをするように様子が変わるのです。
「あれ、こんなにフォトジェニックでしたっけ?」と、ついうっかり見とれて事故りそうになるキケンな美しさなのです。

健康管理を勤しみなさいとおっしゃっているのか、雪が降ってもrunningができる道の状態なので、runningで日々季節の移ろいを感じてます。

たしかに大気は寒いのですが、太陽の日差しの加減が確かに春めいてきて、1月初旬は16時には日が沈んでいたのですが、2月に入ると16時半くらいに伸びています。

一番春だ!と感じたのは、梅のつぼみが咲き始めたこと。

やはり、寒くても太陽の光にあたる分だけ花開くのだなと感じ
植物の静かな強さをみて、このように生きなければと思います。

私は愛されていない、そう思う人に向う愛。

愛されることを願わない人はいないですよね。
しかし、愛されるより愛したい。っていう小説がかなり昔に流行っていたことがありました。(知っている方、バブル前を知っている方だと思います)

当時の私は、「そもそも愛ってなんだ?」
「好きより激しい感じはするけれども、それはいつ解るんだろう。」
そんなこと漠然と考えながら中学生になり、思いもよらない聖書の中で「愛」に出会うようになりました。

「神は愛である」
「私を見た者は私を遣わした方を見たことと同じなのだ」
つまり、イエス様を見た(認めた)人はイエス様を遣わした神様を見ること(会ったこと)と同じだよ。

マジで?
っていうか、イエス・キリスト=愛ってこと?
愛ってどういうこと?
そんな問いが浮き沈みしながら、学校で捧げる礼拝の時間に新約聖書を読み進めていったのですが

ある日、マルタとマリアという姉妹が出てきました。
おっと△関係か?と言うわけではなく、

マルタはイエス様をもてなすことに忙しく働きまわり、
マリアはイエス様から御言葉(みことば)を聴くことを喜んで聞き入っていました。

マルタが見かねて「マリアにも働くように何か言ってください」とイエス様に口添えを頼むんです。

あなたはマルタの気持ちわかるなぁって思いますか?
私は、激しくマルタの気持ちが分かりました。

その頃、両親が共働きだったので駅から徒歩40分かけて帰ってきて、空腹の中で夕飯を作っていたんです。
妹は好きなアニメ番組を温かい部屋で、私は寒い台所で。
なんで長女だからってこうなるんだろう。。。
マルタはきっとこう思ったに違いない
「わたし頑張ってますよ。褒めて下さいよ。そして、妹の不甲斐なさを叱ってくださいよ。」って。

だから、
イエス様が
「マリアはより善い方を選んだのだから、それを奪ってはならないよ」と返答したその一言にショックを受けました。

マルタ可哀そう!!!
何言ってんの?頑張っているマルタのことも認めてあげなよ!
そう思いました。

あまりにも激しくショックを受けて、そのシーンとその聖句を自然と考えるようになりました。
だって、これのどこに「愛」があるのか分からなさすぎたから。

そして、10年くらい経った時に少しだけ見えてきたことがありました。

マルタの「私って頑張っていますよね?頑張っているの認めてください。」っていう想い・考えを
イエス様は知っていたんだろうなと。

そして、それを無下に無視したわけではないんだなと。
ただ、イエス様が伝えていた御言葉(みことば)にマルタが求めている愛があるから、その愛に満たされて欲しいと思っていたんだな。

マルタよ、マルタよ
あなたを愛している。
だから、私の話を聞いてほしい。

そうイエス様は思っていたんだなと、神様の愛を知るようになってから気づきました。。。

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