報道と恐れの因果関係がなくなる日を願って。

私はなんでもないただの小国民ですが、メディアの暴力を体験したことがある、ある種の被害者です。
「摂理はカルトだ」と断定される方々の声、その話だけを取り上げて、断片をつなぎ合わせて加工された映像がまことしやかに流され、それに見合った話しか報道されなかったあの時。アポなしで教会に押し入って映像を取られるという体験したことがあったり、

どこの放送局も同じことしか報道しないその恐ろしさ。
それが事実として受け取られてしまうその恐ろしさ。
報道ってこういうものだったの?という悲しさ。

味わいました。

報道が映さなかった部分。
映そうとしなかった部分。

悔しさ、悲しさを分かって頂けないとしても、
映されなかったその事実を
知っていただけるように、
少しでも、なんらか伝わるように
それだけを考えて今もこのブログを更新しています。

私自身は、今も昔も、足りなさすぎる小さな人間です。
申し訳ないばかりで、生きていてもあまり役に立てることはないそう思えるくらいです。
しかし、死ぬことよりも生きること、希望を持って生きることを教えてもらったのがここ、キリスト教福音宣教会-摂理でした。

創始者チョンミョンソク牧師が10年の刑期を終える今、いろいろと動きがあるであろうと思っていましたが
台湾のメディア大手新聞社が恩師を取り巻く韓国メディアと司法の問題点を報道しました。

記事全体を日本語訳されたもの「鄭明析牧師10年 鉄のカーテン逆境学ー台湾有力紙 新新聞に掲載
一読していただくとメディアとして質がいいのか?
それとも、偏っているのか?
読者(情報の受け取り手)が考えることが出来る記事内容だと思います。

メディアって、こうあるべきなんでは?

率直にそう思いました。

日本はすでに後進国になってしまっているのかもしれない?
この不安が、ただの取り越し苦労、無用の心配であってほしい。

というか、
読者が判断できるような情報を提示するこういう報道が日本にもあってもいいよね?
というか、あってほしい。

そういう思いが湧き出て来てしまうのが、私だけではないはず。
この小さなつぶやきが、どうかしかるべきところに届きますようにと祈りながらつぶやきます。

「結婚」って「生きること」と同じくらい重いんだって感じたの。

思わずたちどまって、聞き耳立ててしまうような心持ちになる記事のタイトル
「妻に辛い思いをさせてしまったこと」
摂理で結婚した男性が書かれた記事。

表現してこそ伝わるというか
伝えるための表現って大事。

そう、あらためて思いました。
自分もそういうの足りなさすぎるなと思って、反省する機会をいただきました。

娘たち全員が成人をするまでは離婚しないと踏ん張った母に、いつ離婚してもいいよと勧めた過去がある私は
摂理(キリスト教福音宣教会)で結婚についての概念を実体をもって変えていただくことが多いです。

新婚から徐々に抜け出す時期?にあられる九州のさくらさんも結婚記事を書かれていました。
結婚する前と後ー想像と違った結婚生活

今まで生きてきたことも
そして、今現在をどう生きるかも
やはり、選択なんだなぁってしみじみ思いました。
生きることはあらゆる選択が詰まったことの結果だと昔誰かが言っていましたが、結婚も然り。

「結婚」って「生きること」と同じくらい重いことだなと思ったけど、
2人で生きるっていう喜びをかみしめている姿をみるとこちらも幸せです。

今まで自分が生きてきたとおりに、
どうとらえて、どう乗り越えるのか。

自分を作ることの大切さを感じます。

それを重要視している摂理の教えに賛成!という大学院生のhanaちゃんが書いた「摂理での男女交際、結婚に対する考え方が妥当だと感じる理由」子供の立場からの胸に迫る記事。

結婚するしないという話というよりは、結婚するならば?
という観点で参考になることが多い摂理人ブログ。
みなさんのお人柄から学ぶこと多いです。

(2017年3月9日UP記事をリライト)