初めて洗脳を感じた出来事。

私がブログをする理由。
それは、記録に近い。
それが、誰かの判断材料になるかいなか、参考になるかどうかわからない。

ただはっきり言えることは、事実しかないそれだけだ。それはつまらないかもしれない。
ただの事実だから。

しかし、その事実一つ一つを通して見えてくるものがある。

例えば、洗脳。
洗脳というと、監禁されたり自由を奪われ何らかの思想などを刷り込まれてしまう。そんなイメージがあるが、新興宗教団体の位置づけで摂理(キリスト教福音宣教会)も、そうでしょ?と思われることがかなり昔はあった。

が、洗脳されてるよ?!と一度も心配されたことがない。むしろ、心配してさしあげることを経験した。

しかも、つい最近のことだ。

なんで洗脳では?と思ったのかというと
洗脳について専門に研究されている方の本を数冊、読んだことがあるからだ。

本人が害を受けていると気付けない。それが洗脳状態である。と、最近、職業訓練時に知り合った女性から物無しマルチのLINEを受け取る経験をして痛感した。

やんわり断るやりとりを、重ねたが、それでもZoomセミナーを勧めてくるため、事業内容は良くてもやり方はハッキリ言ってクロ寄りのグレーです。というか、気分悪くなるおかしなやり取りですとお伝えしたりもした。

実際、会ったことがあり半年間、職業訓練をともにすることで、なんとなく知ってはいるひと。その方が
洗脳的なマルチに引き込まれてかもしれない可能性が高いのを目の当たりにして、お節介だけれど、一旦よく休んで冷静になってくださいと、お伝えするLINEを主軸にアレヤコレヤ約6時間に及ぶやりをした。

その方が言うには、ダブルワークのなか睡眠時間2時間でこの事業について一ヶ月調査して、確証を得たからこそ勧めている、とのこと。

睡眠時間削って心身大丈夫ですか?!と心配が加速するが、御本人としてはそれだけやったから確かという自信にあふれているのだが、むしろ正常な判断しづらい状況では?とますます危ぶむしかない。
どうしてそこまでしているのか?と尋ねると

自分のことを、高く評価してくれて投資してくれているからと話してくれたが、心理学できくところの返報性ですよねと感じるしかなく、知れば知るほど、危険な状態。

判断できない環境作って(調査は、その事業メンバーとしての仕事らしい)取り込まれてしまっているふうにしか見えず、

もうこれは何を言っても伝わらない無駄かもと思いつつも、そのように伝えたら

「心配してくれてありがとう。しかし、一般論で見られて不本意。私が言いたいことが伝わらなくて残念」
とのことで、平行線が浮き彫りになった。

また誘われかねないと判断し、LINEブロックするしかなかったが、これを通して思った。

その方の思いとしては
あなたもその事業で儲けることが出来るんだよ!?という良い話を教えてあげているのにという
慈善のような気持ちから私にLINEを送ってきた
(しかし実際、紹介料は彼女の収入になるだろうけれど)
というが、宗教勧誘として捉えられることも、同じなんだろうなと。

しかし、キリスト教福音宣教会(通称、摂理)では断る人に何度も、追いかけてしつこく誘うことは、ハッキリいってしたことも見たこともない。

なので、これが洗脳状態なのか。と、驚きつつ納得した。

相手の状況や、気持ちを、尊重できなくなるほど洗脳されてこうなってしまっているのだなあと恐ろしさと哀れに思う気持ちが込み上げてきた。

多分、有名大学の事務局やワイドショーとか新聞雑誌で言われてるような感じのままの団体ならば、
私とやり取りをする人や家族とかもきっと私が感じたようなおそれや危機感、哀れみを感じるだろうなと思った。

時折、学生らが色々も親身になってもらって世話を焼いてもらって離れられなくするというような心配される捉え方があるのを洗脳について書かれた本の中でも見かけたが、私の感覚的には返報性に似て非なるものではと感じた。

その理由は、わかりやすいメリットがなんにもない。
金銭などのやりとりはなく、また縛りもないからだ。

だからこそ、なんか違うとか。なんかヤダ。とハッキリ意志を、伝えて去る姿や音信不通になるのを目の当たりにしてきた。(そもそも、金銭目的ならば学生よりも老人を狙うというブラックジョークを聞いたことが昔ある)

時間を、無駄にした!!とあとでモロモロ全部迷惑だったと感情の上書きがされること(私の妹がそんなかんじ)や、実際、ホントはいやいや付き合っていた、ということがあるならば、返報性うんぬんよりは、それぞれの想いでは。と、現場でのことを、ふりかえって見て私は思う。

ともかく、思うこと感じることも操作されることは皆無。

信仰について、教えについて、それを自分がどう捉え考えるか行なうか、それは各個人によるので、認識の違いや誤解があるとトラブルになる可能性はある。
そんなかんじなので、
摂理に関わると洗脳青春奪われるよ。と、語られる方を見ると、ちゃんと調べればわかる話なのになぁ残念。と、しみじみ思うのだ。

山登りをしながら、チョンミョンソク牧師の教えを思い出した。

山梨には日本100名山ならぬ山梨100名山がある。
すぐそこにある非日常。言わずもがな、これが心身にとてもよい。

さいきん、山登りが好きすぎて山梨に移住しました。という方々の気持ちがちょっと分かるようになった。

 

普段、使うことがない筋肉がフル稼働していくなか、絶景を見つける瞬間。これは、
ここまで来ないと見えない、見れない景色だからこそ、一層、意義が深まる。

車を40~50分走らせるだけで丁度良い山に登れる。そして、下山のあとは源泉かけ流しの温泉に入れる。

山に登らずにただ囲まれていただけでは、当たり前だが知る由もなかった。

登り放題と言えるほど山がある。ということは、あんまり人がいかないマイナーな山がある。
人がいかない分、山道がわかりづらくなっている。

山道を歩いていると、思いもよらなかったところからほかの登山者が現れて驚かされることもあった。
整えられた山道とそうでない山道。

整えてもらった状態のありがたみの中、思い浮かんだのは、チョンミョンソク牧師の姿だった。
誰かが怪我をすることが無いように茨や雑草を取り除いてくれていた。

ヒトの目を意識して行なうことは誰でもあるとおもう。
チョンミョンソク牧師の場合、目に見えない神様の目に留まるように、どうしたらよいのか考えて行なうことが今に至るまで変わらない。どんな状況、環境でも、ぶれない。

その不屈かつ強靭な精神力と信仰心は文字通り、人生を一生を懸けて今に至っている。チョンミョンソク牧師のベトナム戦争参戦の体験を書かれた本を読むと、心が洗われるのは私だけではないはず。

恐れと不安に襲われるしかない戦場でひたすら神様を仰いで、そして敵味方関係なく、命が守られることを祈って、捕虜を殺すことせずに生かした。その当時を知る戦友の方々はチョンミョンソク牧師がどんな行動をしていたのかを証言されているが、

「何を食べるかを考えるより、どう生きるかが大事だ。
義を行うことが、食べることよりも大事だ。」と度々おっしゃるその言葉どおりに、ひたすら神様を仰いで生きて来られた方だと改めて思うしかない。

人は食べて寝て生きるだけでは虚しい人生だけれど、見えない神様とともに生きることは、人間には到底見出すことも、行なうことも難しいことを、成していく人生になるのではないか。チョンミョンソク牧師を通してそう思う。

とはいっても、凡人の私にそんな大きなことは無縁だろうと自分でも思う。
では、チョンミョンソク牧師から学ばせてもらって、自分の考えを直したことは何か?というと

宗教的な言葉でなく、平坦な日常的な言葉で表現するならば、

・自分はダメだ。という考えで、終わらせないこと。

・自分が出来ないことも、学べば出来る。繰り返しできるまですること。

失敗したとしても、その過程を神様に報告相談する、祈りをしながら、神様の法則である真理と愛で考えと行いを点検するならば、考える幅が変わる。その考えの幅が広くなること、高くなることが、自分にはどうやっても成せなかったことだった。だから、大変なことがあっても楽しみがある。

なんだ、そんなことか。と、思われる方もいらっしゃるだろう。
しかし、自分はダメだ。という考えと、「出来ない」という考えが様々なこびりついているというか、
こういう考え方では、何かしたいとは思えない。むしろ、自分などいないほうが世のため人のためである。
という、極的な考え、逃げともいえる考え方になるしかない。

なので、こんな自分は生きているのが無駄だと、自分自身もそのように感じていたのかもしれない。(単に鬱状態?うつ病だったというのもあるかもしれないが、薬を飲めば治る類ではないと、自分を掘り下げると痛感した)

そんな私が、毎日毎週、チョンミョンソク牧師から説教(神様の真理、愛、聖書を通して、またご自身の体験を通して学ばされたことを話される)を聴かせてもらう中で、あぁこの話をどう受け取るか、自分が自分の行うべきことを行うか否かなんだな。と、感じる中でいつしかチョンミョンソク牧師は私の「先生」になった。

先生に出会ってこそ考えた方が、変わった。と言えるようになったのも、たぶん、10年以上経ってからだと思う。

しかし、今でも、ときおりというか、日々私は思う。
私など、なんの意味も価値もないかもしれない。

こういう私に、誰が生きる意味を、価値を教えるのか?教え続けていてくれるのか?

命懸けで「そうじゃない。意味も価値も、天地万物、宇宙もすべて作られた創造主によって一人一人にある。」
そう、今も酷暑の中、扇風機しかない部屋に閉じ込められながらも今も教えて、説き続けている先生だ。

ずっと変わらない。
それは、神様の大きな愛を知ったからだそうだ。神様を愛して、また命の尊さを戦場で一層痛感したから、
本当の地獄もいまも体験しながら、神様の愛と慈しみと、平和について伝えている。