辛いと幸せは「一」違い。

この「一」は、新しい考えを得ることではないかとわたしは思う。

良い物を得るには、それなりにいい値段がする。

たとえるならば、100円ショップでもマグカップは買えるけれども、
ブランドのマグカップの値段はその10倍はあるだろう。

新しい自分・新しい考え・新しい世界を得るには
その分、得るまでの「もがき」「努力」とか、「生みの苦しみ」的なものがある。
それがあってこそ得られる。

というか、価値があるから代価がある。
というか、条件があってこそ対価が生じる。

もし、摂理って大変~と思う方がいたら、それは確かに自分を作るという過程「いいもがき」をしているってこと。
なぜ大変なのか?その原因・理由が「永遠」を得るスタートということでもあるのだ。

やみくもに辛さを我慢しろということではない。
辛い心は、問題の表出であり、問題には必ず答えがあるのだ。

なぜ「辛く」感じるのか?
どうしたら「辛さ」が「甲斐」に変わるのか?

もがきにもがく自分に愕然とした経験がある私からのオススメ2つ。

1つ、御言葉・バイブルスタディーに答えがある。

2つ、わっかんねー、なんだか辛い。その想いをそのまま質問してみたらいい。
天と地に。かならず、応えてくれる。わかるまで教えてくれる先生がいるから。

「辛い」を「幸せ」に変換するのは、
自分の「諦めないでやってみること」という一つの「行ない」からなのだ。
そのモデルがチョンミョンソク先生だと思う。
誰よりも諦めたくなる気持ちになるしかない事が多かったであろう
先生があそこまで輝く笑顔で生きていらっしゃるのは、
御言葉が人生の答えだという結果を見せてくださっている。
先生の精神「最後まで」
これ本当に、胸にしみる。

自分が御言葉を聴いて理解できるまで考えてみるとか、
祈って訊いてみるとかそういう「行なってみること」その一つで
辛さは変化する。
「最後まで」知ろうとするとき、自分にしかないオリジナルの味、個性的な経緯になるからhalleluiah

心の畑~マタイによる福音書~

 

 

お師匠が教えてくれた御言葉の中で、まっちゃんが好きな話の一つに

「心の畑」

の話がある。

この話は、聖書の

<マタイによる福音書13章>

に書かれている。

 

★★★★★★★★★★★★★★★

肥沃1

@takanakoubou

イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、

 

「見よ、種まきが種をまきに出て行った。

まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。

すると、鳥がきて食べてしまった。

鳥

@www.hirosegawa-net

ほかの種は土の薄い石地に落ちた。

そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、

日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

石地

ほかの種はいばらの地に落ちた。

すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。

茨

 

ほかの種は良い地に落ちて実を結び、

あるものは百倍、

あるものは六十倍、

あるものは三十倍にもなった。

Sprouts of young garden wild strawberry grown in a nutritious fertile ground

@jp.depositphotos

耳のある者は聞くがよい」。

<マタイによる福音書13章3~9節>

★★★★★★★★★★★★★★★

j

@windychapel

この後に、弟子がイエス様に

「どうして譬え(たとえ)でお話になるのですか?」

と話す場面がある。

つまり、この話は「たとえ」なのである。

では、一体どういう「たとえ」なのだろうか?

お師匠は、

「聖書の中の問題は、聖書の中に答えがある。」

と教えて下さった。

よく読むと、

<マタイによる福音書13章18~23節>

でイエス様が「たとえ」を解いて教えて下さっている。

 

★★★★★★★★★★★★★★★

種2

@seeds.gldplants.

そこで、種まきの譬を聞きなさい。

 

だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、

悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。

道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。

石地

@jp.123rf.

石地にまかれたものというのは、

御言を聞くと、

すぐに喜んで受ける人のことである。

その中に根がないので、

しばらく続くだけであって、

御言のために困難や迫害が起ってくると、

すぐつまずいてしまう。

茨

@new-mu.seesaa

また、いばらの中にまかれたものとは、

御言を聞くが、

世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、

実を結ばなくなる人のことである。

肥沃

@www.biodic.go

また、良い地にまかれたものとは、

御言を聞いて悟る人のことであって、

そういう人が実を結び、

百倍、

あるいは六十倍、

あるいは三十倍にもなるのである」。

<マタイによる福音書13章18~23節>

Sprouts of young garden wild strawberry grown in a nutritious fertile ground

@jp.depositphotos

★★★★★★★★★★★★★★★

ここに出てくる「畑」は「心」で、

「種」は「神様の御言葉」だ。

 

また、「いばら」とは、

「自分自身の中にある悪い考えや性格」

の事だとお師匠が教えてくれた。

 

お師匠は、この聖句を読んで、

自分の中にある「いばら」のようなものが

「自尊心」

「怠惰」

「高慢」

「我慢できない性格」

「血気」

「強情」

などの性格だと分かり、

それを一つ一つ取り除く為に毎日努力したそうだ。

朝

@and-plus.

明け方、朝早く起きてお祈りに行っていた10代の時。

どうしても「怠惰」が出て、布団から起きれない日があった。

そうしたら、どんなに嫌でも

「遠く遠いところまで山を超えて走る」という試練を自ら課して、

「自分が自分自身の監督になって鍛えた」そうだ。

R1

@www.dex.

 

この聖句にある「良い地」のように、

自分の心が「善良な義なる心」に完全に変わるまで、

お師匠は、

何度も何度も自分を練達して磨いてきたと仰った。

 

「何故そこまでするんですか?」

そう聞くと、

 

「神様が願っていらっしゃるからだ。」

 

「善であってこそ、善なる神様と通じる事ができるからだ。」

 

そう仰った。

お師匠の精神は、

 

「ひたすら主・神様」だ。

 

どんな時も、神様が最優先。

自分の考えよりも、神様の考え。

 

いつも神様に仕え、愛し、敬って生きる生。

 

それがお師匠が「実体」として見せて下さった生き方だった。

先生9

@matome

誰よりも聖書のイエス様の御言葉を実践し、

誰よりも神様を愛して生きた人。

 

その切実で、一筋の心が、本当に美しい。

善良な畑」はまさしく「お師匠の心」だと心からそう思うまっちゃんでした。