生きてるとけなされること、貶められることに出会うのよねだから、理想世界って何か。

小市民の中の小市民であるワタクシが幼少のころから思っている一つのこと、それは人生は生きる分だけ大変だってこと。
だから、こそ年長者さんってすげぇなと敬う心が自然と生じるものなんですが、なんだろう・・・
貶められること、けなされることも比例するのを実感するとき、なんで生まれてきちゃったんだろうなと自問自答。

むかしは女性であるということがマイナスだった。そして、今は年を取っているということでマイナス扱いされる。
マイナスにする人がいるとしても、自分がマイナスだと思わなければ、問題なし。
と思えるようになったのは、聖書を通してイエス様の伝えたかったこと、神様の愛を知るようになってから。

最近は女性であることを悪くないと思えるけれど、ちょっと年が近いお姉さんから「もう若くないおばさん」と評されることが今年多いのは、何が理由なのか、そして「おばさん」はどうして悪いのか?なぜその発言がでてくるのか?いろいろ考察が深まる今は秋。

そもそも私が自分に価値がないと突きつけられたファーストインパクトは祖母だった。
「女だから駄目だ」
祖母も女性なのに。
これは私よりもお姉さんからおばさん認定を受けるのと同じ構造な気がする。

祖母は待望の男児として誕生するはずだったそうで、男のような名前を付けられた。
それだけではないと思うけれど、嫌な思いをしたらそれをコピーして自ら行なうようで
一度目の結婚のときに受けたこと、二度目の結婚で受けたときの姑からのいびりをグレードあげて母にしていた。
そう。つまりは「傷」があるからそういうことをしていたのだ。

女性であることも、年を取ることも、ほんとは何も悪くない。
なのに、悪くて、劣っていて、醜いものだとするのはどこから来るんだろうか?

それは、そういう体験をして脳にその考えが入ってしまったからだ。
考えの選択を間違ったら本当にヤバイ。

本当に善い生き方って年を取るごとにできるもの。
それを見せてくれるし、教えてくれる存在が欲しかった。
喉の奥から手が出てくるっていうレベルで。

だからそういう存在に会えたら、絶対に離したくないわけで
誹謗中傷、変な噂が例年のごとくチョンミョンソク牧師にあるとしても
私以上にけなされてきて、私以上に苦痛と悲しみが多かったその人生なのに
恨むより、憎むより
「理想世界って雨の中でもやるべきことをやるってことだよ。」
って言いながらスマフォのライトを点けながら作業をするような人だから。

安穏な後ろ向きに、暗いこと言って、愚痴るような生き方じゃなくて
むしろ、しんどくて大変だけれど挑戦と感謝をし続ける生き方をしている人だから。

明るいと言えない現実をちょいちょいみちゃうとしてもさ、
理想世界ってやつを作ってみようじゃん、私の人生で。
と、そう思うのだ。

褒めることのむずかしさ。

ときどき「やまなしから良く通っているね」と褒められることがある。

というか、呆れられていることもあるけれど(^_^;)

自分にとって必要不可欠で、その価値があるから通っているだけで、
なにも褒められることはないのです。
なーんて心の底から言えるのはわりと最近かもしれません。

普通に自問自答しちゃっていましたよ。
「ほんとにここに時間とお金出してもいいのかな?(移動の労力など考えると^_^;)」と。

でも、人が決めることでもなく自分が決めて選べることなので
いつもその自問自答の根本は

「どう生きたいか?」というものでして
自分が確かめるしかないのですよね。

なので確かめた結果、これでいいんだ。
というかこれがいい。
そう確信出来たから今に至っているだけなのでした。

というわけで、私に「教会にわざわざ山梨から通っていてすごいね」というのは褒め言葉ではないのです。

むしろ「やっぱその価値あるよね!」と言ってもらえるほうが嬉しい。

そう気づいた時に思いました。
褒めるってむずかしいなと。