地に足ついていない。と、そう思ったでしょ。

神様を信じているとか、教会に通っているというと、目の敵のように接されることが過去何度かありました。
面倒なので、隠れキリシタンになったほうが生きやすいってことかしらん。と思ったこと遠い日、思い出します。

むしろ、信仰ってめっちゃ現実と向き合ってこそ、なんぼだな。とこのコロナで右往左往する事態になって改めて思います。

政府が集会、イベントを自粛するよう呼びかけする前から一足早く教会閉鎖されるようになり、自分と家族と日本と世界のことをいろいろ省みる日々の中、私の人生、後悔なく誰かのためになるような生き方ってどう生きればいいのかな?と思うに至りました。

そんなわけで、昨年からじわじわ知り始めた地域社会課題を自分の生活に結び付けて関わっていこうと始めてます。

家族にたいして、恨むと憎しみをなくすことが出来なくて、自死することが一番平安なんじゃないか?とまで考えていたことがある罰当たりなわたしが、そんなこと考えて行動してみようとしているなんて20代の私が知ったら驚愕だなきっと。

祈りは大事だけれど、祈りだけではなくって、行うこと。
行うことも大事だけれど、自分の考えではなくて、天の考えに合わせて行うこと。

その体現を見せながら教えてくれるチョンミョンソク牧師が聖書を読んでねと何度も言いながら
教えてくれたこと。
それが昔からの言い伝えのようなお話でもなく、気休めのような癒しでもなく、私の中にある自分をダメにする腐った考えを取り除きながら、全部を抱きしめてくれるような治療であり、前に進めるようにいつも背中を支えるように押してくれました。

変わりたくても、変われない私がもし変化できるならば、この地域も日本も変化できるはず。
と、山梨から東京に通うなか何度も思いました。それが久しくなって、普通になってもうやばい年数になったなぁ数えるの怖いなとひしひし思い始めたその矢先、コロナで通えなくなった今、じゃこれを機に行動で実習しなきゃねと言われている気がします。

ほんと小人の私らしく、小さな実習ですがチョンミョンソク牧師が教えてくださったこと。
それを私が行えるのかな?と正直のところ半信半疑ですが、自分の身に起こった現在進行形の奇跡を考えると、なにもしないのは死んでるのと同じだ。という聖書の言葉が襲いかかってくるのと同時に

天地万物創造し、主管できる神様のすごさを驚き仰ぎ見る心意気でやりなさい。と、チョンミョンソク牧師に横で言われる気がしながら

春風に吹かれる如月の候。

 

 

 

身につまされる「親を愛する」ってことは。

最近、教会に通うようになってからどんな変化があったのか?神様の愛を知ってから若者にどのような変化があったのか赤裸々な話を聴かせてもらえる機会がありました。

過干渉気味なお母さんが大嫌いだったそうです。彼女などいないのに「女が出来たのでは?」と勘繰られたり、いつも学校の成績のことしか話題に上がらない。そういう中で心が閉じるしかなく、数年まったく会話もしない日々のなかである時、「これは御言葉(神様の愛と真理)に反している」と朝祈っている時に気づいたそうです。神様のことを愛しているように、神様が作られた親も愛さなければそれは神様の願う愛を成していないと。

が、しかしどうしたらいいのか分からず・・・
「愛せないです。どうしたらよいのでしょう。」と祈り願い求めたそうです。

そこで、簡単な当たり前な挨拶からスタートし、自分の学校やバイト先の話しなどするようになってゆき、いつしか大学の卒業旅行へ一緒に行こうという計画を立てるほど関係性が回復したそうです。
その過程で、いかに自分のことを大切に産み育ててくれているのか、その偉大な愛を悟ったと語っていました。

思わず目頭が熱くなり、もらい泣きはほとんどしないわたしももらうはめに。

父親と約2年間話さなかった時期からどのようにして冗談を言えるくらいまでになったのか、そのさまざまなことが思い返されました。

まだまだ最近もお互いの削らなければならない部分で朝っぱらから怒鳴りあうこともありますが、それでも前よりはちゃんとキャッチボールできるようになってきました。(以前はデッドボールの応酬のみ)

悲喜こもごも、喜怒哀楽。
主の愛と精神は人生の悲しみと辛さ、行き場のない澱のようなものを堆肥に換えてくれる。
いかに人生を豊かにしてくれているのかを、しみじみとかみしめてともに感謝に溢れる時間となりました。