捧げることのプロを見たから。

何で毎週礼拝を東京まで捧げに行くのか?

肉体が疲れたり、お金かかったりすることは確かですが、それ以上に神様が自分に答えてくださる事が
私の生きる力・糧だからです。
・・・・なんていったらカッコイイですけれど

ときに、自分の肉体が辛いなと思う時、原稿や映像で御言葉を得たらいいんじゃないか?と思う考えよぎることもあります。
でも、倒れて動けないという事でもない限りは、私が存在する理由とこれからの生きる方向性を、真実につかむには
そりゃそれなりの代価必要だよと、もう一人の自分が怠慢な私を天使と共に説得してくれて、東京へと向かいます。
私の肉体があまりにもダダこねる時は父とか通して「今日は行かないのか?礼拝に」と直接働きかけてくださる天に感謝。

心を捧げる。愛を捧げる。礼拝を捧げる。
真心と真実な心で捧げると、かならず神様は答えてくださること、教えてもらいました。

いろんな自分の考えとの戦いの中で、先生を思います。
むずかしい状況があるとしても、いつもどこでも真実な真心で、神様を喜ばせるその姿を。

どうしたら私もそのような愛で神様を喜ばせることが出来るのか。
見えない神様を見える人のように愛する。
その先生の姿からもっと、御言葉学ぼうと思います。

新しい朝。

変わりたくても、変われない。

そういうジレンマのどつぼだった時、新しい朝が来ても、季節が変わっても
変化のない自分のココロを見て、ただ過ぎていく時間が恐ろしく、もどかしく、苦しかった。

万物が時にしたがって花咲き実を結ぶのを見ては、ひとり置いてゆかれるような気持ちだった。

「御言葉聴けば変われるよ」と言われた時、
自分のできる限りのことをしたが変わることが出来ず途方に暮れていた私にとって
半信半疑の心が5割
月も星もない夜の様なこの空虚感と焦燥感のココロに朝日が昇るかもしれない期待が5割だった。

宗教に答えがあるのだろうか?という疑念はあったが、
心理カウンセラーの先生に「あなたの知りたいことは、神様しか解けないことだ」と言われたことを思い出して、
神様がいるならば、教えてくださる機会をもらったことだと決意して、一歩踏み出したのを覚えている。

道を調べて、目的を確認して、自分の足がどこの地についているのか
足の裏に生きているという実感と感謝が生じるようになるまでは、いろいろあったけれど、

どこでも教えてくれない人生の根本と自分のココロの取り扱い方を教えてもらう
その貴重な情報を得るには必要な努力という対価だったと思う。

今は、新しい朝、新しい季節がくる時、恐くない。
私に力をくれることを感じられるから。

今日は主日礼拝。
太陽のように、必要な新しい真理の光と神様の愛を心いっぱいに満たそうと嬉しく準備する。