献金ってどういうものか。

摂理に来る前から、礼拝に参加する機会が私にはあったので、献金ってどうしたらいいのだろうといつも気になりました。

どのくらいの金額をいれたらいいのだろう・・・・とか疑問がありました。

摂理に来てから、礼拝について教えてもらったり
献金についてもどんなものか教えてもらいました。

献金とは神様に感謝を捧げること。
貧しいやもめ女が生活費全部を捧げた時のイエス様の仰った
「だれよりもたくさん入れたのだ。 」というエピソードや

神様は全部を持っている方ゆえに「従順は捧げ物にまさる」と聖書にも書かれているように
神様の御言葉を守る事。行なうことが一番神様が喜ばれるけれど
どうして献金を捧げるのか?
神様がくださった祝福に対して、感謝を表す行為をすることでまた祝福を受ける
という神様の法則・約束であると旧約聖書に書かれていると、聖書を通して教えてもらいました。

 

また、チョンミョンソク先生がどんな風に神様に捧げてきたのか
しわくちゃの紙幣をアイロンでのばしたり、お金をピカピカに磨いて捧げたというエピソードや
お金がない場合は神様に時間を捧げたというその先生の真心。
金額ではない。
真心をどのように表すのか。

原理原則でありながらも、根本は愛と真心の世界だと、先生の実践エピソードとおして学ばせてもらいました。

神様がしてくださったことを思い返して、一つ一つ感謝する思いを表現する事
それが大事。

有り余るものの中から一部捧げるのではなくて、
自分の持っているものの中で一番良いものを捧げる心。
そのような天への敬拝と感謝。

どのようにしたら一番神様が喜ばれるだろうか?と
いつも研究しながら
より新しい自分と
真心を捧げられるように
天と自分という関係を生活のすみずみまで省みる時に、捧げる準備となる
そのように感じます。

決まった額があるというわけではない、心情と愛の世界
深いです。

礼拝で出会う。

みんなと同じことをしていないとダメなんじゃないか。
そういうのも信仰においては、まったく不要なのですが、日本の教育による影響なのか、

「集団行動をしないと、信仰悪いって思われちゃうんじゃないか。」
「みんながアーメンっていうところに合わせてアーメンって言わないといけないんじゃないか。」
というまったくもって、不要な気遣いをしていることを見聞きしたことがあります。

いらないっすよ。マジで。

神様と自分、一対一。

主日の御言葉で、泣く人もいれば、笑う人もいる。
一人ひとり個性と経緯は十人十色。

信仰悪いって、悪いからなにか?
もっともがいて、これも天とのイキサツにします!!!
と、主の服の裾を掴んで引き留めるのもよし、

よくわかんないから、よくわかるように教えて下さいとありのままを天に伝えてもよし、

気さくな天の御言葉に心を委ねてみるのもよし。、

今、天が何を自分におっしゃっているのか、それを100%存分に集中できる礼拝。
そこでどんな心を捧げて、どんな心を受け取るのか。
どんな考えで捧げて、どんな考えを受け取るのか。

それは、自分にしかわからない秘密みたいな物。

同じ御言葉を聴いて、核心と方向は一つだとしても、それぞれが感じる所や思う事は
本当に個性通り。

自分と神様、神様と自分。

やり取りがある。

それが、愛なんだな。と

皆の中で神様に会うんじゃなく、
自分がただ天の前に、神様の心の中に入っていくような礼拝を捧げる時に感じます。

ま、今ではこんなこと言っちゃってる私も、
初期の頃、こんな至らない私は礼拝に行っても神様喜ばないんじゃないでしょうか・・・と思っていたことがありました笑。

そんな気持ちを、天にありのままに伝えた時、神様はおおらかでした。

信仰って、うまく出来る、うまくできないとかは無くて、ただ、神様にどうしたら近くできるのか
いつも自分を新しく作っていくことなのか~と、チョンミョンソク先生の姿から信仰の楽しさを学びました。

上手くできないと怒られる。価値無いように言われる経験が摂理来る前に私にはあったのですが、
神様は上手くできるかできないかよりは、神様と共にすること・天との経緯を願われるのだと教えてもらったのでした。
ちゃんと理解して、その考えで行なうことができるまでには数年かかった私ですが、

礼拝で新しい力をもらえるんだ~という素晴らしい味を知ることが出来たので、やっぱり経緯って最高です。

そんなわけで来週はもっと良い礼拝を捧げたいと思って準備します。