カルト随筆記。

人と人は考え方と感じ方が違う。
だから、理解すること・理解されることは出来ないと私は孤独の中、思った。

人に話したところで、何も解決されず
むしろ逆に溝を感じるのだ。

しかし、摂理で神様に自分の思いを全部話すこと、それを教えてもらった時
神様の視点でみると自分の矛盾と相手の主張による摩擦も無理なく解けることを体験した。

結局、人同士の溝は考えと感覚の違いからくる。

そして、自分と違う意見・考えには納得がむずかしいものだ。
納得できるところで満足できるかどうかではないだろうか。
しかし、それが答えではないし、正しい答えはやはり人の次元では分からない。
主張の対立で終わるであろう。

自分が正しいというわけではなく、誰かが正しいというわけではない。

聖書の真理が自分の人生で起こるすべての摩擦と溝を解決できる基準になると実感したときに
真理はあなたを自由にするとイエス様がおっしゃったその意味を雷が落ちたように体感した。
どこのだれが摂理はカルトだといっても、それは否と。
私は論破することができる。
そう思った。

なぜなら、人同士の思いと考えでは、
馴れ合いか対立のどちらかしかない。
それは安楽さか溝の埋められなさになるかであり
つまりは、問題の解決ができない。

神様は双方が一つになるように真理と愛をキリストを通して教えてくれるのだ。

今起きているすべての問題はキリストによる真理と愛を知る過程なのだと
真理を持って解ける時に思う。

平たく言うと、人間同士のめんどくさい部分を
鈍感になることで乗り越えるのでなく
聖書の真理ですっきり解かれつつ癒されたりもするのですよ。と、いうことである。
これが摂理で体験したよかったこと。
の一つである。

よって、摂理はカルトだと思う方とも、
神様のもとで和を講じることは可能なのだろう。
偏見から来るカルト視は、実像を知るならば無くなるし
誤解から来るカルト観は、真理で解かれたらなくなる
結局は、知ることが大きい。

真理を自分の生活に引き寄せたときに、
イエス様が「真理があなたを自由にする」とおっしゃった意味が分かる。
そして、それが学びなのだと振り返って思う。

そういうわけで、怪しいカルトなのかどうかは、知ってみてから
判断してもいいのではないですか?という提案である。
これって勧誘かしらん。

摂理のモデルをどうみるのか。

礼拝を捧げる講壇の準備をしている子の歩き方がとっても美しくて、作品だなぁとおもわず見いってしまったことがありました。

170センチ以上ある人ならではの手足の長さは、やはり所作に美しさが現れるな~と思いました。

彼女は摂理に来てきれいな歩き方を学んだそう。
たしかに、背筋をただのばすだけでなく、肩が水平であること、足の踏み出しかた等々
知っているか知らないかで全く違いますね。。。

神様の下さったからだを神様に感謝して美しくすること。
そういう、神様への賛美での一つなんです。

背が高くて、それが負い目で、辛かったという人が
摂理では神様のモデルとしてカッコよく、美しく個性的に栄光帰している様子を
日本でも、韓国や諸外国でもみます。

目に見えるカッコよさも然りですが
なにより、目に見えないところがどうなのか。
それが偽りがない美しさであり、
神様への感謝と愛ゆえだとかんじます。

10年位前に、摂理について面白恐ろしく、女性をはべらすような北朝鮮の喜び組?みたいな報道をしていた放送局があったけれど
人ではなく神様を見て、芸術をしているんですよーと声を大にして叫びたい心底おもいました。(あの映像等全部、事実を捻じ曲げて加工されているから仕方ないんですけれど)

北朝鮮の喜び組は生き抜くためにそうせざる負えないような状況にあるのは
脱北者の証言等で周知の事実ではと首をかしげるしかないです。。。

報道の通りに摂理をみる方からすると、あなたたちも洗脳されているからだという見解になるのかもしれませんね。
が、しかし
洗脳って思想教育ゆえに
ながーい時間かけてするか
極的な状況に追い込んで短い時間で仕込むかの二通りっぽいですよ。
監禁されて脅されたり拷問されたりされるようなことを日本でしていたら即、捕まるんじゃないかなと。
っていうか、
選択の自由が普通に認められている日本において、
給料もでるわけでもないところに一生懸命できるんだろうか?

一般的に考えて
そりゃないっしょ。
とおもえませんか?

報道もより善く進化されているのか否か。今後を期待したいです。