私の住まいは海なし県、山梨。
四方をぐるっと山に囲まれた盆地。
ここには残念ながらキリスト教福音宣教会の教会はまだない。
私が伝道されたのは(ここでいう伝道はキリスト教宣教会(摂理)でバイブルスタディ学んで、自分で礼拝に出たいと思うようになったことを指している)山梨だった。
え?どうやってか?
その話は御心(←神様の意向に沿うこと)ならばまたの機会に触れようと思う
経緯をはしょって話すと
バイブルスタディを山梨から通って聴いた。
東京に住むなんて到底考えられない人だったが、
神様がしるしをくださったりと聖霊様がインスピレーションくださったり(自分の考えを越える考えをもらって「そうしよう!」と思った)
そういうわけで東京で一人暮らしするようになった。
また数年後、導きがあってメンバーと一緒に住むようになり、いろんなこと学ぶ時をいただいた。
そして数年後、どうにもこうにもどうすることも出来ないことが起こって、山梨へ。
気が付くと、東京で過ごした日々と山梨で生活をするようになった期間が同じくらいになった。
山梨から東京まで通勤・通学をする人や友達が見たことがあるので、それに比べたら週一通うことはなんてことはない。
ただ、仕事や勉強ではないということで、特殊にみられる(家族を始め神様を信じる事についてあまり知らない大体数の日本人ではそうだと思う)
なぜ、通うのか?通えるのか?
そう思う人が多いみたいなので、それについて今日は書こうと思う。
一言でいうと、生きるため。
働かないと生活できないように。
ご飯食べないと生きられないように。
教会で、礼拝捧げる(目に見えない神様と御言葉を通してお会いすること)事が
そのように必要。
しかし、まさかこれほどまでに通うことになるとは
予想もしてなかった。
東京の都会的なところが苦手だったが、かといって山梨も好きじゃなかった。(好き嫌いというよりは、苦しかった。)
「人は環境で生きるのではなく、考えで生きるのだ」と摂理で学んだことを行なったとき。
本当に、そうだなと心からその通りだと思う。
閉塞した空気とも感じられる田舎独特の雰囲気の中でも
自分の考えと行ないを新しくする生活ができるので、
天の知恵・神様のみことばのすごさを実感するのだ。
「人はパンだけで生きるのではない」
イエス様がそうおっしゃった御言葉。今はどういう意味なのかが分かる。
「金なき者も来たれ、命の水を与えよう」
持てる物だけもって、ただ慕って通うしかない。
糧のように、水のように、必要な御言葉。
「価をつけられない」から、通うしかない。