あくまでも「私が個人的に」よく言われることについてフラッと書いてみようと思う。
通い始めて、また通い始めてからしばらくたって言われたこと。
だいぶ通うようになってから言われたこと。
そして、最近いわれたこと。
家族から、昔からの友人から、久々にばったり道で会った友人から、前から交流がある同じ教会に通う友達から、
そんなに親しくはないが縁があって、話した人から言われたこと、
様々な時、相手から言われたことが面白いことに、全部共通している。
前より、良くなったよね。
はい。そうなんです。
年を取る分だけ、それを実感しております。
バイブルスタディを学び始めて1年弱のときに、本当に私はこのまま聞き進めて信仰者になってしまったら?どうなるんだろうか?と突如として不安に襲われて中学からの友達に相談してみた。
そのときに「何か搾取されたり、命令されているわけでもないならば、その不安は理由がないというか未来に向かって誰もがもつ不安というかだよね。今、聞いてみて学んでみてよいと思うことがあるならば、様子見ても問題ないのでは?」と言ってくれたその子は、私が教会に通うこと自体が生活の一部になったときに「自分の意見をはっきり言えるようになったね。前は優柔不断だったけれど、それがなくなった。」と私が気づかなかった変化を、述べてくれた。そして変化した私をみて、自分もなにか変化したいと思ったときだったのか彼女もバイブルスタディを学ぶようになった。
痛快だったのは高校卒業して10年ぶりぐらいにばったりショッピングモールで会った子に「昔よりましになったね!」と言われた。ましになった。と言われてからさらに15年くらいたつが、最近は他教会所属(摂理の関西のほう)の子に「初めあったとき(8年くらい前)この人大丈夫かな?と思いましたが、だいぶ良いというか、話しやすくなったというか。」と言われた。
そして、わりと親しい友達にも似たようなことを言われた。「硬いというか、なんか嫌な感じがあった」と。ちょっとしたつながりで時々会う人からも「前より柔らかくなったよねーどうした?」とか。
自分自身で気づいている部分もあるので、やっぱそうなんだなぁ。と、思うの同時に、過去、迷惑というか嫌な思いさせて申し訳ない。と思う。(だから、人に会うのがあまり好きではないというのがある。)
ので、気を遣わせるとは察しながらも、申し訳ない。と、そう伝えると「いや、悪くはないんだけれど・・・」と、やはり気を遣わせてしまう。本当に、私は人とのかかわりが、むずかしいんだなぁと思う瞬間だ。
硬かった理由は、一言でいうと、自分のことを肯定できなかったからだとおもう。
祖母から生まれてきたこと自体を酷い形で否定されてしまったのがやはり人格形成にも悪影響だっただろうけれど、私はずっといろんな意味で一人だった。それが辛くて、寂しいということを、言葉にすることもできないかんじだった。言葉にすると、決定打になってどうにもならない事があらわになる感じがしてしまうから、いつもそれを取り繕うのに必死で硬かったのではないかと思う。
寂しさは、誰かといるほど、感じる。
そういうのは、人格形成どうこうではなくて、そういう習性というか、個性なんだと、HSPという傾向が自分にいろいろ当てはまるな~と思って知っていく中ですっきりした。(HSPもいろんなタイプがありますが、私は特にそういう面が一致します。)
善し悪しではなく、そういう個性。
だからなんだと、分かってから、何が自分は好きなのか、嫌いなのか(負担なのか)そういうことも改めて整理されたのと同時に、個性通りに働きかける神様。というのを、生活のなかで体験するたびに、癒されたのだ。
私は、これでいい。
私は私でいい。
全然良くないところもまだあるけれど、それがあるから全部だめってわけではない。
良くないところを直して、作って、よりよく生きよう。
それを今も変わらずチョンミョンソク牧師は伝えてくださっているけれど、
本当にそういうことなのだ。
そう、自分がそれをどれだけちゃんと心の真ん中に受け入れて、心地よいと感じる瞬間を天とともに生きるのか。
楽しいと思える瞬間を見つけていくことを通して、苦しいことも苦しいと気づけなかったのは、縮こまって、窮屈だったのだ。決して自分を肯定しない物差しで自分を図り、人と比べるだけだから。
信仰生活というものをしながら、常に自分と向き合う。
自分の足りなさを感じない人はいないはず。そして、神様の前では、どんぐりの背比べだ。
そして、誰かの物差しで善し悪しを決められても、驚くほどだれも責任を取らない。
つまりは、責任をとれない。そんな当たり前を、かなり年を取ってから理解するようになった。
楽しいとは、どういうことなのか。
そんなこと考えるのではなく感じるものだろうと大多数の人は思うだろうけれど、私は過去感じられなかったときが長かった。その理由どうこうより、それを通して、得たことは無駄で無意味とは言えない。
だから、それでいいのだ。
カナツギという日本特有の陶磁器の修理技術がある。
それに似ている気がする。
ひびが入ったり、欠けてしまった陶器に金などを流しこんで使える状態にするのだが、ヒビがはいったからこその味のある表情が生まれる。欠けたから、ヒビが入ったから駄目。ってことはない。
自分ははみだしもの。要らない存在。
そんな後ろ向きというか、いたたまれない気持ちで生まれてきてすみません。と、いつも思っていた10代だったけれど、今は「文句あっか。たとえ、あっても、言わせない。」そんな厚かましさを持てるようになったから年を取るのも悪くない気がする。
私にとって、神様の真理・愛である御言葉はカナツギの金のようなものだ。
私だけでは、なににもどうにもならない。要らないもの、捨てられるような存在として、見られて自分もそう思って存在していた。
けれど、神様の真理・愛をイエス様が伝えたかった天国・救いを知る分、その意味をわかる分、
人間が持っている善し悪しの物差しがいかに自分を辛くさせるのか気づく。
真理はあなたを自由にする。とイエス様がおっしゃったことが確かに自分の身に起こったのだと思う。