年に、数回くらいの頻度で「教会に行っているって親に話していますか?」と訊かれることがあります。
つまり、「教会に通う」というハナシをしづらい。
という状況にある方が思いのほか多いのだと感じました。
この質問のあとに続くのは「いいなぁ親に反対されなくて」というコトバ。
中には「どうして教会に通っていると言っても反対されないんですか?」
もうちょい、はっきり言うと
「どうして摂理(キリスト教福音宣教会)に通っていると言っても、特に止められなかったんですか?」
と言われることもあります。
なので、きょうはその辺りについて書いてみようと思います。
反対されない理由、シンプルに2つ。
一つは、「私が、かなりまともになった」のはイイ人達からの影響に違いない。と思っているから。
これは書いていて自分でも何ともいえない気持ちになるのが否めませんが(^_^;)、
事実、自分がここまで回復したのは≪神業≫と日々痛感しています。
その過程を目撃している家族(両親はじめ妹たち)も、その変化は認めざるをえないのです。
なので、毎週日曜日に礼拝に出かけるのが日常の風景。
もし私が家にいると「どうしたの?」と言われます。。。
理由の二つ目は、
「摂理・教会」について話しつつ、行事に誘って巻き込んでみたから。
とくに、話しづらい部分。を自然に話せるくらいになったことが大きかったと振り返って思います。
そのため、一部からまことしやかに「摂理はカルトだ」と言われている現状について何回か伝えているのですが・・・
母は「いやーみんなイイ人たちだから、それはない。」
父は「世の中いろんな話があっても、それが事実だとは限らんから。」
ドキドキした分、拍子抜けしました。
2人ともあまり多く語らない人びとなのですが、自分の目で見て、考え判断する人達だったんだなぁと、今まで私が知らなかった面を知るようになりました。それはさておき、2人は何を見たのか?というと、いろんな行事に参加して見たんです。
摂理(キリスト教福音宣教会)のメンバーと直接、会ったり、一緒に過ごしたりするような機会が幾度となくあったのです。
私が参加する教会のイベントや、教会主催のスキー合宿などに参加したり、山梨まで遊びに来て下さるメンバーもいたので、そういった交流を通して「この人たちはイイ人達」という認識がはっきり刻まれて、不肖な娘がお世話になりまくっているであろうから「これ持って行け」と家でつくったお米や野菜を持たせられ、私は筋肉痛になるということが割とあります。
話をまとめますと・・・
私のような不肖な輩は、親が心配しない。ということですね(^_^;)
あとは、父母ともにキリスト教について抵抗感が特にない。
この要素も大きかったと思います。どうしてか?というと・・・
キリスト教について良いイメージがあったのは、父の姉がクリスチャンで、しかもかなり人格的で模範となる方だったのと
若い頃、父はYMCAの活動に参加していたり、母は私たち姉妹がミッション系の中高に通っていたのでその学校の入学式・卒業式の礼拝に参加してみた時に、「荘厳な雰囲気がイイ!」と感じていたそうです。
二人ともキリスト教の活動や教えになんとなく触れたことがある。
それが大きかったなぁと思います。
共通して言えるのは、
自分が体験した物事によって、判断する材料になる。
キリスト教・摂理(キリスト教福音宣教会)が悪くないと感じるモノだったと言える体験にあると思います。
そう、やはり体験って大きいなと思います。
まさに百聞は一見にしかず!ということです。
もし「摂理はカルトだ」という話を聞いたならば、
まことかどうかを確認してみるのがイイですね!
そんなオススメに帰結します。m(__)m