私が人生の中で「宗教アカン」って思ったことがありますが、それは「死んだ人間が生き返る」っていう話を真剣に説得された時でした。
いつ?というと
それは摂理(キリスト教福音宣教会)に出会う前。
どこで?というと
山梨の山梨市にあるキリスト教の教会でした。
どこの教団なのかはいまいちわからないですが、どちらにしても「死体が生き返るのが復活です。それが神様の御業です」と大真面目に言われても信じることは私には出来ないというか、もしそれを強要されるならば無神論者になる方がいいかもしれない。そう思った記憶があります。
だって、人生とは一体何の為にあるのか?それを知りたくて、私は教会に行ってみたのに、それが分からないまま生き返っても、ツライのが無期延長なだけで解決にならないから。。。
そんなこんなで、これがキリスト教ならば私はクリスチャンにはなれないなぁと思ったんですけれど地球をわざわざ作った神様について感覚的に私は否定できなかったので、ちゃんと教えてくれる教会がほかにあるんじゃないか?とほのかな期待を抱いてその後もいくつか教会行きましたが、きょうはその話は置いておきます。
今日のワンポイント「復活」。
この「復活」について再度強烈に考える機会があったのは伯母のお葬式でした。。。
伯母はクリスチャンだったので、お葬式が礼拝式でした。
牧師さんのメッセージで「キリスト教では復活が望みであり、私たちはそれを信じていますが、死体が生き返るというのは信じがたい話ではあります。何か意味がある話だと思いますが、それは信仰があってこそわかるのでありそして、それがわかる日が来ることを望みとしております。」と・・・わかるような、わからないような曖昧な希望について話されていました。(っていうかおばちゃん、火葬だったので死体の生き返りではないということは分かっているということだなと推測できました)
しかし、信じるのは自由だけれども、その曖昧さでは人生かけて私は信じるには至れないなぁ・・・
そう思いました。正直なところ。。。
イエス様が死人を生き返らせた記述は事実であるけれども、死人を生き返らせるという意味がそれならば全員生き返ったら食糧問題はじめ多くの社会問題が噴出しそうだけれど、どうなるの?
等々現実的に疑問があったので、死体が生き返る復活は信じる信じないというよりはどうしてもスルーするしかない
こんな私ですが、どうして神様信じているか?というと、復活を体験したからです。
摂理では復活について霊的な死と肉的な死があるということ。
死の概念について聖書をもとに明確に説きつつ、自分の生活で確認もできる「復活」を教えてもらえました。
なので、どうしてこの摂理(キリスト教福音宣教会)がカルトなのか?
いまだに分かりません。(やっぱりカルタと間違えているんですかね(´・ω・`)その疑惑についてはこちら⇒摂理がカルトではないことをカルタをつくって説明してみた)
公平で、誠実で、正義感のある方ほど
カルトだと断言する前に、その尊い名誉に傷がつかないように、確認と共に慎重に発言されるのがいいのでは?
と老婆心が起きる今日この頃です。