つれづれなるままに。

生きることは食べること。
食べることは生きること。と同じくらい問題のるつぼでガチャ。

わたしは東京から戻ってきて早15年くらいになる(あのときに生まれた子達はもう中3なのかと思うと驚愕する)

あれだけ悪態ついて元気すぎるくらい元気だった祖母も去年100歳を迎え、かなりおとなしく悪態もつかなくなったが、一難去ってまた一難。

家のとなりに家族経営をしていた事業が法人化されたことにより、騒音と粉塵も業務量に比例して増えたことで心身の健康被害が生じ、改善を求めたいと希望するが父はそれを善しとせずそのストレスからますます具合悪くなっている。(隣家とのトラブルを避けるため、我慢をすべきという父の考えとの衝突)

こう書いてみると、なんで私は次から次へと、また新しいストレスが来るのだろう。呪われているのだろうか。(以前、とある信徒からあなたの信仰が悪いからと言い放たれたことがあり、人に近況を話すことがトラウマになったが、ほんとになんかあるのではないかという気持ちにはなる)

私にとって、人生は、生きることが結構しんどい。
それは、もう10代のころからだったし、それがいま思うと家族の機能が果たされていない環境要因もあることさながら、自分の個性と家族それぞれの個性がまったく合わない。という残念なめぐりあわせもあるし、いろいろ原因、要因を考えるとあれも、これも、である。そりゃ、死にたくなるわ。と、誰も言ってくれなかったことを、私は過去の私に言ってあげたい。

自分の考えが悪いのだと、自分を責めること、環境が悪いのだとせいにすること、それぞれ解決にはならない。
だからこそ、死んだほうが良いのでは?という考えがよぎっていたわけだ。

そう、私の孤独は、今に始まった訳ではない。
そう、話が通じないしんどさは、もう何十年前から始まっていた。
私の個性、家族の個性、それぞれどうこうというよりは、話が通じないその恐ろしさ。
その、どうしようもなさが、絶望という言葉で自分を包む。そういうのを幾度、感じてきたことか。

家族だからこそ、心配されるのでは?とかそういうこともない。
家族だからこそ、私の考え・意見を簡単に無下にされること、人権などへったくれもない。

山梨の児童虐待の通報件数が過去最高になった。と、何が虐待なのか、広く周知されるようになったからこその件数の増加であるととらえているとニュースで聴いたけれど、そういうことだと思う。

社会の中で、法令違反を正々堂々している山梨の会社数社で働きながら、行く先々で、法令について調べ、行政とのやり取りを通して諦めと、悔しさを味わうことを通しても、同じことを感じた。

悪いこと、良くないこと。そういうことは日常的に、家庭でも、社会でも普通のこととして起きている。
程度と、頻度、状況と、内容、それぞれあるけれども、生きていくことが、本当にむずかしく感じてしまうそういうことが起きている。

人が死ぬことを通して、これはいけないよね、改善しないと。と、いう温度感なのが、否めない。
だから、親ガチャ、上司ガチャ、会社ガチャという言葉がここ数年、あちこちで聴くのだろうと思う。
人によって、まったく味わうことがない苦しみ、悲しみ、辛さを皮肉って半笑いで、自分が置かれている状況を笑い飛ばして、シニカルにやり過ごそう。と、そういう気持ちから流行っているんじゃないかと私は思う。
(念のために簡単に説明すると、「ガチャ」とは選べない。という意味合いである。)

結局、想像力の欠如。考えるべきことを考えない、もしくは、考えられないことから生じているので、
考えるべきことを考えることで、行動も判断も変わるはず。
そう答えは明確なのに実現をするのが、ありえないくらいむずかしい。
あれ、それって待機児童の問題だったり、社会問題のあれこれにも全部通じている。。。
The personal is political 
個人的なことは政治的なこと。それに尽きる。

考えが行きつくと、どうしようもなく身動きが取れない。
なぜならば、その個人的な苦しみが解決の見通しがどうしようもなく、たたないから。
社会の問題も、個人の問題もつながっており、国も何とか制度とか法令とか様々あるけれど、
存在している行政組織で対応すべきことさえも忙しさを理由に後回しというかおざなりになったり、行政は中立であると理由から法令違反を野放しにすることもあるし、家族という単位でも自分の苦しみを無下にされることもある。

本当にどうしようもない。

そういう中で、どうして今も生きているのか?というと、チョンミョンソク牧師が生きることの意味と目的を
文字通り、命懸けで伝えつつ、誰よりも神様の御言葉を実践し続けているけれども、たぶんというか、確実に私よりも何十億倍も辛い思いを苦痛という言葉では表現しきれない思いをされているとおもう。
その状況、環境、起きている事象を考えると、私よりも計り知れないストレスがある。
自分が辛いことがあるたびに、チョンミョンソク牧師のそのすさまじさを感じる。

先生の信仰と精神力を仰ぎ見るしかない。といえば、それまでであるが、

その方の後ろ姿を見るというか、学ばせてもらったこと。
誰にも頼れない状況だからこそ、そのなかでシンプル4点によって、いやしと力をもらう原点にかえる。
それは、祈りと、御言葉と、実践、賛美である。

宗教的な行為だと言われるその4つは、人知を超えて神様の愛と恵で癒しと力をもらえる。
本当に、それを実感する。
だから、キリスト教は実感する宗教として世界に広まったのだ。と言う話を以前、聴いたことがあるが経験からその通り!だと、同意するしかない。

気休めではない。
もう生きるのは、自分にはむずかしいです。という、ありのままの言葉を、誰が聞いて受け止めてくれるだろう。

癒してもらえるからこそ、もう少しやってみるか。という心に、なぜだかなれる。
自分の考えでは、もう蒸発したいのだが、
もう少しやり方をこんな風に変えてみたらどう?とか、アプローチ方法を工夫しよう。とか、
受け取り方を、対処を考え方を変えてみよう。とか、
状況をよりよくするために、探してみよう!という原動力が湧き起こる

それが、祈りと御言葉と実践と賛美で得られるのだ。
ほんとに、真っ暗な中で人知を超えたチカラだと痛感する。

聖書に書いてあることをリアルでどう解釈するのか?タラントについて。

タレントの語源である「タラント」(新約聖書時代の通貨の単位)の話は、私が中学生の時に初めて読んだ。

カナダからの女性宣教師が建てた学校は今もなお信仰心が厚い。
言わずもがな私が通っていた時も年が若い学年ほど、聖書の時間が毎週一コマだけでなく、毎日礼拝当番があり、それぞれ持ち回りでメッセージ(説教)を伝えるということがあったり、新約聖書の有名な話を紙芝居にする課題などがあったりした。

その中の一つが、マタイによる福音書のエピソード、タラントの話だった。

5タラントを任された人はもう5タラント増やして、主人に10タラントを返したが、1タラント任された人は、もし無くしてしまったら主人にひどく怒られるだろうと思ったので、土に埋めておいて「これがあなたが私に託された1タラントです」と、主人に差し出したが主人はそのしもべの行動に失望をし、追い出した。という箇所だ。

私は、この1タラントを埋めてしまった人が怒られなじられることが理解できなかった。
むしろ無くすかもしれないような商売をするほうが恐ろしいのでは?と思ったからだ。
自分はなにも出来ない。だからこそ、無くさないように埋めるのがいい。とそのしもべも中学生の当時の私も思った。しかし、お金を託した主人は「それならば銀行にいれておけばよかった」と言った。お金が無くなった訳ではないのに怒る主人のその気持ちを、なかなか理解することが難しかった。託されたお金を無くすかもしれない。その恐れのほうがはるかに理解できるからだ。

でも、今は手に負えない額ではなく、その託す相手を信じて、預けたということだと、今はわかるようになった。考えなしに、適当に託したのではなく、その経験を通してより挑戦を通しての成長もできる。そういう意図もあったのではないかと。

しもべに託したのは「きっと、うまくやって銀行に預けるよりも増えるだろう。増やせる力がある。」と、見込んでいたということなのだと、時を経てようやく理解できるようになった。

私が30年前よりも20年前よりも、行なうようになったこと、それはお金を稼ぐことを通しての自己成長、鍛錬だったと思う。

逃げたくなったり、もうだめだと、思うことも度々あった。私は、もともとできない。どうせだめだ。というような考えが強かったから余計にそうだった。しかし、そういうときに、いつも思い出されたのは、チョンミョンソク牧師が自身の経験を通して教えてくれたことだった。

神様はこんな風に助けてくれた。だから、あなたも祈ってみて。と、教えてくれたことだったり、聖書の人物ヨシュアがいかに信仰で行なったのかを説いてくれたことだったり、人生を通して得た知恵や知識、神様の愛について説いてくれた数々、

それらに支えてもらって、私は、いろんな場所でいろんな仕事をした中で、いろんな理不尽な目にもあったけれども、自分の苦手なことも、難しいと思うことも、訓練のように繰り返すことで出来るようになることを体験したり、出会う人や出来事を通して必ず得るものがあった。
聖書にあるとおり、「無から有を作り出す神様」を感じた。

だから、なにもせずに埋めてしまった。そのことが、どれほどもったいないことなのか。
を、少しはわかるようになったのだ。

タラントを預けた主人としもべのたとえ話を通してイエス様は何を伝えたかったのか?
端的にいうと、神様は一人ひとりに才能(タラント)を与えている。だから、行ないなさい!というメッセージであり、

あなたには、もらっている才能、素質、能力がある!!行なって、成功を治めるべきだし、行なわないことほど、愚かなことはない。そういう教訓だ。

だが、私は自分の主観で、預けた主人の気持ちを理解しようとするこもせずに埋めてしまった愚かなしもべと心情一体だった。

そんな私が、主人の気持ちを汲めるようになったのは、辛いときにこそ、隣にいる見ていらっしゃる神様。目に見えないけれども、たしかな存在を御言葉を通して実感したからなんだと思う。

簡単に言うと、自分の考えだと絶望しかない。または、理不尽などうしようもない事態のなかで、恨みと憤りのるつぼにはまるしかないこともある。
しかし、祈るならば、御言葉を考えるならば、、神様の考え方だと、それを通して得るべきものを見出したり、乗り越えて進みやすくなる。そういうことを、大なり小なり、生活の中で積み重ねられていったからだ。

人は、自分の考えに陥りやすい。それだと本当に苦しい。
恨んでも何もならないと分かっているけれども、考えを変えられない。
私は長い間、祖母に対してそういう感情がどうしても否めなかった。
恨んでも憎んでもどうにもならない、父母それぞれに思うことも、申し訳ない。
それならば、自分がいなくなった方がいいんじゃないか。そんな風にずっと思っていた。

だから、騙されても、人を恨まずに、こうなった意味があるはずだと祈り求めたチョンミョンソク牧師を知ったときには、本当にそんな人がいるのか?と驚いた。
話を盛ってやしないか?と、思っていたけれども、チョンミョンソク牧師ご本人が話す機会をわたしは録音、録画、画面をとおしてだけれども、肉声とおしての話は、やはり説得力はその方が持っていると思った。

人を憎みそうになるとき、ヒトを恨んでもおかしくないとき、憤りで頭がいっぱいになってもおかしくないようなときに、自分の考えをおいて、神様に心を向けて人間には考えつかないような心を、考えを天からもらってその状況を乗り越えていくチョンミョンソク牧師の姿は、20年くらいたっても変わらない。
むしろ、より一層大きく、より強く、たしかだ。
到底出来ない場所で、今も私たちにこと細やかに分かりやすくこれ以上ないくらいの最高の説教を文章を手書きで送り続けている。

チョンミョンソク牧師は、若いときにかなり大きな金額を詐欺で奪い取られたときに、神様がどれだけ人類を愛しているのかを悟ったという経緯があるが、私はそこから鮮烈に学んだ一つのことがある。それは切実に、自分のありのままの心、思いを、祈りで神様に告げるということは、どんなに素晴らしいことなのか。ということだ。

自分の弱さを認めてこそ、神様からの助けも感じられる。
自分の弱さを知っている人ほど、強くなれる。
自分の弱さを知るのは言い訳とは違う。
弱いから、何もしない。なのではなく、弱いから、助けてください。
そう求めればいいのだ。

5タラント任された人は有能だろう。
けれども、1タラント任された人にしかできなかったことがあるはず。
量も大事だけれども、質も大事だ。
何よりも、任せた主人はそれぞれに見合ったものを任せたので、任された側どうしで優劣を感じる必要もない。自分は自分のすべきことをすればよかった。
人と比べることほど、意味がない。

タラントを埋めた人も自分の能力や可能性を主人は見出してくれて、任せてくれている。と気づいて、自分の「私は出来ない。無理だ。怖い。」という考えから抜け出せたら、行なって、自分の能力も可能性も確認できたはずなんじゃないか?

ヒトより、勝っているかどうかよりも、自分が今、幸せな心かどうか。
幸せとは人と比べて得られるものではない。
自分が行なってこそ、それが得られる。
と、思えるのは、1タラントだとしても、少しだけ私は増やせたのかもしれない。

そして、増やせるようにしてくれたのは、やはりチョンミョンソク牧師から教えてもらい続けているからだと言える。

人は良くも悪くも変わるものだ。だからこそ、努力とか、研究とか、よりよく生きるために、考えて、行ない続ける必要がある。けれど、それを実行するのはむずかしいはず。

少なくとも、私が知る限りはそうだ。

だから、今もなお最高に熱心に努力を行ない続けている今年80歳のその方に、そういう生き方を、学べることに感謝しかない。