縁を切るのは割と簡単だということ。

ここ数年、定期的に習い事をしている。参加者は私より若干、お姉さんが、多い。ゆえに、参考になる話を毎回聴くことができ、習いごとプラス➕アルファを得られる機会である。

ある人は息子や娘の心配事について語り、ある人は職場で感じているモヤッとしたことを話して言えない本音を話していたり人生色々、話も色々だ。

ある時、講師の方に「先生は、腹が立つというか赦せないと思うとき、どうされますか?」と直球でコメントを求める方がいた。

講師だけでなく、その場にいた人も異口同音だったのは「怒るのも、エネルギーの無駄遣い。疲れるから、見ないこと考えないことにします。」

じつは、私もそれを適応してる部分があり、これは年をとるとエネルギーを有効活用すべく省エネ手法を自然と選び取るのかもしれない。

怒っても、憤っても何も変わらないならば、どうするのが一番いいのか?

自分がこれ以上、消耗しないのが得策だといえる。

つまりそれは、疲れる摩耗するだけの関係性ならば縁なんて無かったことにするという話だ。

実際、これをすることでかなり心が平安になる。そのため、やり取りが成り立たなければ、もうこれしかない。と、最近のわたしにとって懐刀よろしくであった。そんなときに、先輩方から同じ方法を聴いたので、ナニコレ実は暗黙の技だったのか?と思った。

しかし、これはチョンミョンソク牧師の方法ではない。先生は、先生(イエス様のことを教える)だから、何度でも、本当に何度でも、わかるまで教える。

どのくらいか?というと冷やしておいたスイカ🍉を食べたのに食べていないと、嘘つかれたときにも、その人がそういうことを普通にするのはちゃんと教えてあげられなかったからだと、神様に自分の至らなさであると祈るような人だ。(ちなみに🍉食べたことを自ら告げるまで、🍉をあげつづけたらしい。ちなみに、祈っているところを誰かがその内容を聞いて感動したというそういう話だ)

そういう嘘をつく人がいたら距離を取るしかないと思うのが大多数だとおもう。だから、その人もいつも一人ぼっちになるしかなかった。先生は、その人のそういう嘘をつくしかない、孤独な人生となっているその境遇をその人の代りに嘆いてその人が本来すべき悔改めのお祈りをしていたそうだ。

そういう愛を教えてくれる先生だと、なぜその場に居たわけでもないのに信じられるか?似たような話をきいたり、何より同じことを何度も何度も教え続けている姿を見たからである。

一番、痛感したのは10年の獄の期間だった。

先生はどこでもイエス様を迎えて暮らすと獄へ行く前も、行ってからも同じだった。どんなふうにか?というと、狭い場所でもイエス様が座る場所を作り、対話するお祈りをするそうだ。

だから、いまもこのような箴言を伝えてくださっている。

10.自分の行ないを通して神様を感じ、仕えて生きなさい。

11.自分の体を通して神様を映して見なさい。

12.見えないものは見える方法で見てこそ見える。見えない神様を見るためには、神様の考えと心を自分の心に抱いて実践して生きなさい。

<2023年2月18日土曜日の明け方の箴言>より抜粋

今の状況は訴訟で拘束をされている。
その内容通りの行いをする人ならば、このようなことを伝えられるだろうか。

そのような人が、空調がない狭い独房で10年間も祈りと御言葉を中心に生活をする姿でそこの職員の人たちに一目を置かれるようになるだろうか。

自分が、大変な状況、苦痛を味わう環境の中で人のことを心配し、神様について伝える。そんなことが可能なのは、2000年前十字架に架けられながら亡くなったイエス様しかわたしは知らない。

老いを感じるが、焦りというよりは貴重さを感じること感謝。

40過ぎて、やはり老いを痛感する。

これ以上、どんどん老いることが手に取るようにわかる。

30代半ばから中年らしいが、そういう扱われ方はそこまでなかった。

が、40からは完全な中年の扱いされてるのをひしひし感じる。こうやって高齢に向かっていくんだろうなあ。

私があまり結婚願望も出産子育て願望もないから焦りもないのかもしれないけれども、でも聖書を通して自分が知りたかった生きる意味について知らなければ、恐らく他者と比べて(もしくは勝手に比べられて)不安を感じたり、焦燥感にまみれていたのではと、過去の自分をおもうとそんな想像がリアルに浮かんでくる。

知った分、追求して生き、日々歳をとって行くことは、老いによる不便さは経年進むほど出でくる覚悟は必要だろうけれど、それ以上に確かなものが蓄積されていくから、今が20代の時よりずっと幸せを感じて生きて自分も自分のことが好きになったようにおそらくは50代もより感謝して生きてる気がする。

変質と変化は同じ「変わる」だとしても、対極だ。どこかで聞いた話だが、エネルギーを加え続けない結果が、変質でエネルギー加え続けることが変化だとか。目に見えない朽ちない体についてイエス様の弟子(と言っても、生前にあったのではないパウロ)が説いてる新約聖書の一節を思い出す。

「肉の体でまかれ、霊の体によみがえるのである」(コリント人への手紙第一15:44)

折しも今週の主日礼拝主題「イエス様は霊で復活なさり、霊で再び来られた」だからか、このコリント人への手紙15章全体を読むとすごく感慨深い😳✨

聖書が、昔の誰かの話ではなくて自分にも繋がってる!そして、力を得られる!というのを誰かに話したい〜と、思わず思ったので書いた次第です。