勧誘に気を付けて!という注意喚起を見るたびに。

春から初夏にかけて、毎年のように目にする。
それは、「カルト宗教の勧誘にご注意!」的なアナウンス。これはもう季節の風物詩レベル。

というか、そもそもカルトではないのにカルト扱いされる身、としては「カルトじゃないのにどうしてカルト扱いされるんだろう」という疑問から考察を重ねてきました。

恐らくは、よくわからない未知なものに対しての恐怖による憶測と警戒心でひとくくりにされているとそう察しました。

たしかに、得体のしれない輩に人生めちゃくちゃにされたくなんてありませんもの。。。

しかし、心配しないでください。
信仰って良くも悪くも簡単じゃないですから!!

簡単だったら、もっと信徒数増えているだろうし、こんな、地味でなんかないはず。(国が違えば、台湾は国も認める善良な慈善活動団体であるので様々、国民性ゆえなのかという声もチラホラ)

自分だって初めから「これはすごい!素晴らしい」とか思って東京まで通いながらバイブルスタディを学んでいたわけではないです。
むしろ、おかしなところがないか?と疑いながら、不安と不信を懐に抱えながら通っていたような輩でありました。(ホント不遜な奴)

変におしつけてきたり、お金をとったり、強要してきたら即やめよう。断固、連絡を断とうと思っておりました。なぜなら、わたしは歩く人間不信。

そんな私が

実質を確認したところ、、お金はとられない。(むしろおごってもらうことがあった)のと、わからないことは分からないとはっきり言われるし、信じるかどうかは自分次第だと委ねられ、
そういうやり取りをしてくれる人たちがとても素敵だったか?というと、どちらかというと、安心できるそんな、人たち。

まだ社会経験も少ない自分から見てもえらく純粋で、善良で、こんなんで世の中でも生きていけるの?という感じの人たちでした。

学校という世の中でも、強者として君臨するのは人を傷つける言動をする人たちが多いと私は経験上思っていました。

だから、人にかかわるのが嫌になっていたし、死に場所は山の中がいいと思いながら自殺する方法を考えていて、
人畜無害そうで有害な自分の精神状態から、そう死ぬのが一番妥当であると思っていた
そんな私からすると、人生穏やかに明るく元気に生きている人たちってそれこそ異次元で。

しかし、そんな生き方は私にも起こりうるらしい。。。マジか?と、
確認と実習をしたくて私は東京と山梨を行き来し、いったん東京で一人暮らしやら教会の人と一緒にルームシェアしたり、そのうえで山梨に戻ってきても本当に働きかけてくれる神様の御働きを実感したり、人間的には絶対無理。
ということを、小さいことから大きいこともまでいろいろ体験して、現在に至るのです。

ゆえに、信仰ってそんなもの自分の身の上に起こるわけない。と思っていたときよりは、確かに少なからずは信仰というものがあるとは思います。

けれども、まったく行いが足りないので、本当に私に信仰はあるのか?と自問自答するような始末。

と言うわけで信仰とは一朝一夕では生じえないので、石橋叩いて渡りたい人は叩けるだけ叩いてもいいと思います。私も叩いて渡る派というか、叩きすぎて割ってしまうくらいのタイプです。それ故、生きていく勇気もなくなってました。

そんな私が
死ぬことを選らばずに、生きていけるようになったのは、経験が本当に大きい。そう思うのです。

会社だろうが、学校だろうが、その狭い世界だけではない。そういう感覚得られたことも良かった。(昨今、サードプレスを持とう!という話がありますがまさにそれ)

自分とは、なんなのか?
自分が必要とされないのでは?そういう混乱と焦り不安が信仰生活を始めるからと言ってすぐに解かれるわけでもないです。むしろ、勝手に人と比べて辛くなることもあったり、自分とは、違う立場による見解のコトバに傷つくこともあります。

ただ、そこではっきり言えることは
自分を絶対に肯定してくれる存在が神であり、
必要だ。と言って、死ぬなと引き留めてくれるのも神であり、
誰も助けてくれなくても、慰めてくれなくても、
見えなくても
見える空や太陽の光や、時には通りすがりのおばあちゃんを通して、
励ましてくれるのも神様である。
そして、まだ生きよう、やってみよう。
そういう気持ちになれるように(そうなれないときは休ませてもくれる)導いてくれる神様でもある。

ヒトの考えだと、お前はもういらない、意味がない。死んでしまえばいい。
そういう考えと結論しか至らないが、そうではない。
と、ずーーーーーーーーーーーッと根気強く語って説き続けてくれる神様。

自殺でなければニート、引きこもりになるしかないような私だったから言えることですが、

宗教団体うんぬんというより、人対人というくくりにおいて、どうであれ人生経験を積めるのは大きな機会であると経験して思うのと、
自分の足で立って生計を立てて社会の中で生きていくなかで、どんな場所、どんな人と出会っても、絶望しないで生きるチカラを得られるのは信仰から来る希望と、いまだ悟りきれてない神の愛それしかない。と、心から断言します。

こう言う私を弱くて愚かだと言われても、死ぬこと考えて生きてた若い頃よりもずっと楽しく感謝しながら生きてるゆえに馬耳東風です。

そんなわけで、勧誘されるかもと恐れなくても大丈夫。本人の意思によらなければ何事も成されないので、ご安心ください。

汚部屋ならぬ汚屋敷掃除の仕事で、教えてもらったこと。

ゴミの中で生活をすることを良しとされる方もいると、近年耳にすることはあったが実際、遭遇することになり人生は思いがけない出来事が起きるって本当だと改めておもったものだった。

短期の仕事で食いつないでいる私は、履歴書に書ききれないため割愛している就業経験がいくつかある。
その中の一つが『清掃』のお仕事。

一般家庭や企業の事務所のお掃除などが主な契約だが時々、これはッ!!と尻込みをしてしまうような案件の依頼があると先輩から聞いてはいた。(孤独死をされた方の部屋だったり、数十年掃除されてない台所の掃除とか、人が住まなくなって数年経ている古い家だったり。。。)

私が同行させてもらったのは、かなりのゴミに囲まれて?というかゴミに埋もれて生活をされている方のおうちだった。

先輩が言うには「久々に、人んちに靴で上がったわ。。。手ごたえがある案件ね。」

まず、玄関を開けてからそのまま靴で入場する。床が見えるようになるまで約2日間かかった
ということで、新米のわたしはそれでもだいぶ家っぽくなった状態で加勢に入ったのだが
掃除をしている最中、ご近所の散歩中(というか、散歩に見せかけての偵察??)の方々から
「え?とうとう死んだ?」と窓越しに何度となく訊かれた。

家が大変なことになっていると、隣家の方が目に余る状態を見かねて家主の血縁関係者に連絡をした。というのが、今回の依頼の始まり。。。

ご依頼主は、家主のご兄弟。実際に来てみたらこれが実家か?と疑うしかないような尋常でない有様。しかし当人に告げても埒が明かず。そのため、業者に依頼。&これを機に持病を治療をせよと汚屋敷主は強制入院というくだり。。。なんて、詳しく話すことはできない。

ゆえに「や、ご存命中です!(←日本語として妙だが仕方ない)」と、簡潔に対応しながら、油か何かの黒く粘着質のある液体を洗剤とタワシで強力に擦り取る作業をしながら何度か応対した。。。

床の謎の汚れをこそげ取る作業と、壁の謎のシミをこすり取る作業と、痛くなった手首と腕としゃがみこみできつくなった足腰の疲労を存分にかんじながら生きるときに向き合うべきものとの対峙はいかに大事なのか身につまされた。。。

汚いって思えないから、ここまでゴミをゴミだと思えずにむしろそれらに埋もれて生活をする。

これって自分の心もそうではないか。

汚いって思えること、自分のダメなところ。
それを気づけることも大事なことなんじゃないか。

あと、これは信仰者にしかわかりにくい話・感覚であるが「罪」についての清算。これに通じるなあと感じた。
罪を悔い改めることって言われると正直だれしも引いてしまうと思う。
というか、私はこの絶好のチャンスをなんだか悪者であることを明らかにされてしまったかのようなばつの悪さを条件反射的に感じる。。。

心の汚れも、罪も、
ただ、気づいて落ち込むことで終わりにせずに、どうしたらよくなるのか?

それが大切なんだって感じたのは天からの私へのメッセージかと思う。

掃除は、片付けた分だけ、磨いた分だけその通りに現れる。
変化することは新しくなること。それは、ある種のしんどさがあるがその分確実に、よりよい自分になれる。
その積重ねが、新しくなるってこと。。。そう改めて思う機会になった。

ちなみに、
お風呂のカビ落としはじめ、カルキ落とし道具の使い方を学べたことも◎だった清掃のお仕事。いろんな場所でいろんな人生に出会えるので、日々刺激的であった。