チョンミョンソク牧師をどうして信じるのか?

元摂理のメンバー(キリスト教福音宣教会に在籍していた)実の妹に正月に久しぶりに会いました。

思いもよらなかったのですが、彼女から家族の問題を発端にいろいろと話し始めて(というかぶちまける感じでしたが)どうして教会に通わないことにしたのか?を自ら語ってくれました。

「理想論を長い時間話をきいても何も変わらない。というか、良い話を聞いてもこんな行動する人たちってどうなんだろう」という事があったと、色々話してくれました。妹はもう通わないって決めたから!ということで、一切今後は話をしてくるなと言っておりますので(というか、もうすでに妹に連絡取る奇特な方はいらっしゃると思えないのですが)もしご存じの方で気に留めて下さっていた方は気兼ねなくお忘れくださいm(__)m

正直、私自身が言うだけで「行ない」がない。そう認めざるを得ないため深く深い痛みを覚えさせる現実に向き合う今年始めとなりました。
しかし妹に対してモーレツに腹立たしい気持ちもあり、どうにもこうにも整理がつかない思いの中で、自分の対峙すべきモノとあいまみえて当たり前なことを受け止めるに至りました。

色々とぼろくそいわれる自分については、ただ私が変わればいいだけのことなのだと。

そして・・・・これだけはハッキリ伝えなければならない!って思いました。

「チョンミョンソク牧師は理想論を話しているのではない。」ということを。

どうして、私がそう思うのか?そのように信じるのか?というと

一番逃げ出したくなる思いをしたときに、どう生きるのか?
希望が見いだせない時に、どう生きるのかを見せてもらったからです。

総会長牧師のチョンミョンソク牧師とは直接同じ空間にいることなど、以前もこれからも全くないであろうくらい遠い距離のワタシですが、その方をどうして、信じられるのか?というと、教えてもらうことが具体的な話だからです。

たとえば、思うとおりに行かない。
もしくは、不条理な仕打ちを受ける。

そんな時、どう思うのか?どうするのか?
人を恨まずに環境のせいにすることなく、より善い生き方をするってどうしたらいいのか?

私だと、負のスパイラルで生きる希望も力も出せないのですが、教えてもらったことを自分の生活でやってみるならば、得られるようになったのです。
希望が無くなりそうな時には、希望を。
愛を見つけることができそうにもない時には、愛を。
目には見えないけれど、実感するから今日も明日も生きることができる。
そんな生きる力を得られるようになったからです。

 

じゃなんで、妹にとってそれが「理想論」になってしまうのか?

 

信じること・どのように受け止めるかは人それぞれ自由だから。
それに尽きるなあと、しみじみ感じます。

そして、
苦い味が心に広がる中、決めました。

理想論ではなくて、理想的な生き方。
行なって伝えるチョンミョンソク牧師のスタイルを私もホントに身につけよう。
と。

そんなわけで、良薬口に苦し的に今年がスタートしたのでした。

釈放の年、チョンミョンソク牧師はどうだったのか?

わたしはなんの役職もない一般人なんで、まったく会うと言っても、とおーくから群衆の一部として!っという感じで、これから先も多分私はそんな背景よろしく的な人だと改めて実感したのですが(笑)

10年以上ぶりの姿を見てから年末の今日に至るまで、有言実行と言うか実行したことしか話さないその在り方、昔と変わらないと言うかより洗練されてるユーモアに脱帽、日々驚嘆。目が離せません。

追っかけというモノにまったく縁がない淡白な自分がその気持ち理解できるようになったなあと感慨深し。

なんでそう心動かされるのか?という疑問の声が聴こえてくる気がするので一つだけ紹介します。

中国で勾留されたその時に、電流を流される拷問を受けた影響で、数字の計算が出来なくなった時期があったそうですが、そういった拘束を受け続ける状況でありながらも指を回すリハビリのような運動をたくさんされて、回復されたそうなんです。

もし自分がそういう目にあったらどうするだろうか?

そう考えたとき

絶望しかなく、何もしようとは思えないだろうな、と思いました。

よりよく生きることについて難しい状況でどのように生きるのか?を理想論ではなく実践したことをもって説く姿、昔と変わらず。と言うより、なお一層重厚で、あぁこういう人に会いたかったその夢が叶っている❗と叶えてくださった神様に感謝あふれつつ

目に見えない神様をリアルに見せてくれるスペシャリストを見つめ続けたい所存であります。