失敗したとき、負けた時にどうするかが運命の分かれ目。摂理の「教え」を受けましたシリーズ

大阪なおみ選手がまさかの一回戦敗退をした先日「負けるのは嫌だけれど、学ぶことは大きくある。今までがそうだったように。」というコメントをしていたのが印象深い。

失敗は誰もがしたくない、というか失敗すること=負けることのようなイメージが強いのは否めない。

失敗をすることよりも、失敗なぜ失敗したのか?を見つける認めることが、より自分の大きな成長につながる。
それを実践している人が、アスリートには多いのだろうな。

しかし、私はアスリートでもなく、なにかを目指すような志が特になかったからか、失敗をすると、失敗をしたことに対しての自責の念に囚われて、なぜ失敗をしたのか?そして、どうしたら同じことが起きないようになるか?など再発を防ぐことなどを考えるよりは、どちらかというと
「~だったから仕方ない。」という「合理化」や、「とりあえずこれ以上は落ち込まないようにしよう。」という「逃避」という選択肢を選びがちだった。
それが「私だった」と今は言える。

だいたいの傾向としては、
やっぱり、自分は愚かだ。やっぱり、ダメだ。その一点バリ。なのが8割がだった。
なので、あるコーチングの人が「失敗をしたらお祝いをしましょう!それを通して成長する機会になったのだから。」という提唱をしているのを目にしたときは、目に入っていたウロコがトンカチでかち割られたような気持ちだった。

でも、・・・大きな目標を持っている人だからこそ、失敗は成功の母!と祝えるのだろうなと傍観にとどまってしまう我。

そんな自分だからこんなんだろうな~ともう一人の自分に突っ込まれているのを感じる中、仕事場で何がダメなのかが分かる事件が起こったのだった。
今までしたことがない単純なミスを連発するという事件。

自分で自分を疑うような衝撃を覚えるほど単純なミス過ぎて、
「これからの人生、本当に生きてけるだろうか?どうしてこんなことが起こったのか?」と愕然とした。

そんな自分にその週の明け方の礼拝メッセージ「ちゃんとすればできる。」というその一言が浮かんできた。

そうそう、ちゃんとしていなかった。けれども、なんでちゃんとしていなかったんだろうか?

AといわれたからAとした、けれどもBを要求された。そのために、臨機応変な判断が出来なかった。
と言ったらそれまで。
何をどうしたら「ちゃんと」になるんだろうか?
「そんなこと、考えたことがなかったわ~」と自分の浅はかさに恥ずかしさを覚えながら考えてみた所・・・

「何の為にそのようにするのか?」なにをすべきか?を理解するならば
自然と優先順位が分かって、拍子抜けするくらい条件反射的に判断ができるってことを気づいた。

そう、ただ表面的なことで自分は言われるがままにただやっていた。
「考えなかった」ことで、「ちゃんと」できなかったんだ。
と、問題が見えてきたのだった。

自分を責めるのは簡単だが、自分を改善してよりよく成長する方向に持って行くのは、無から有を作り出せる。
やっぱり神業だと思った。のと、同時に「より良くなる」のはこんな感じなんだなと、わかった。

自分ダメだ。という帰結じゃ何も変えられないし、、、自分はダメなんだ。というセルフイメージは、何も得られない。
「ちゃんと出来ない」というのは「ちゃんと考えていない」ということで、なんでちゃんと考えなかったのか?
その原因は「自分はダメ」という考えなくさせてしまう負のパワーワードにあったのだと気付けた。
自分はダメというところで終わるので、勝ちようもなく、志しようもない。
そして、もっとダメになって行く。恐ろしい連鎖。

 

脳の思考回路は一回出来上がると再構築しづらいらしい。
そういう話を何かの本で読んだ覚えがある。
まさに、恐ろしい思考回路に私は出来上がっていたんだなぁと、いい歳こいてようやくわかった次第。
そして、どんな失敗をしても神様はそこからよりよく成長してほしいから手を伸ばしてくれる。
そんな大きくて温かい愛を感じたのであった。

失敗も負けることも、成功するため、勝つために「知るべきこと」がある。
そういうことなんだなぁと、ようやくまっすぐに受け取れたのだった。

まとめ:
失敗したとき、負けたときは、「ちゃんとしたらできる。」の「ちゃんと」を見つけられるチャンスってこと。

神様は絶対に良くなる!ことを願って教えてくれるってこと。
助けて下さる神様の愛が一人ひとりの上に注がれている。
読んでくださったあなたにその愛が感じられますように。お祈りします。

 

チョンミョンソク牧師をどうして信じるのか?

元摂理のメンバー(キリスト教福音宣教会に在籍していた)実の妹に正月に久しぶりに会いました。

思いもよらなかったのですが、彼女から家族の問題を発端にいろいろと話し始めて(というかぶちまける感じでしたが)どうして教会に通わないことにしたのか?を自ら語ってくれました。

「理想論を長い時間話をきいても何も変わらない。というか、良い話を聞いてもこんな行動する人たちってどうなんだろう」という事があったと、色々話してくれました。妹はもう通わないって決めたから!ということで、一切今後は話をしてくるなと言っておりますので(というか、もうすでに妹に連絡取る奇特な方はいらっしゃると思えないのですが)もしご存じの方で気に留めて下さっていた方は気兼ねなくお忘れくださいm(__)m

正直、私自身が言うだけで「行ない」がない。そう認めざるを得ないため深く深い痛みを覚えさせる現実に向き合う今年始めとなりました。
しかし妹に対してモーレツに腹立たしい気持ちもあり、どうにもこうにも整理がつかない思いの中で、自分の対峙すべきモノとあいまみえて当たり前なことを受け止めるに至りました。

色々とぼろくそいわれる自分については、ただ私が変わればいいだけのことなのだと。

そして・・・・これだけはハッキリ伝えなければならない!って思いました。

「チョンミョンソク牧師は理想論を話しているのではない。」ということを。

どうして、私がそう思うのか?そのように信じるのか?というと

一番逃げ出したくなる思いをしたときに、どう生きるのか?
希望が見いだせない時に、どう生きるのかを見せてもらったからです。

総会長牧師のチョンミョンソク牧師とは直接同じ空間にいることなど、以前もこれからも全くないであろうくらい遠い距離のワタシですが、その方をどうして、信じられるのか?というと、教えてもらうことが具体的な話だからです。

たとえば、思うとおりに行かない。
もしくは、不条理な仕打ちを受ける。

そんな時、どう思うのか?どうするのか?
人を恨まずに環境のせいにすることなく、より善い生き方をするってどうしたらいいのか?

私だと、負のスパイラルで生きる希望も力も出せないのですが、教えてもらったことを自分の生活でやってみるならば、得られるようになったのです。
希望が無くなりそうな時には、希望を。
愛を見つけることができそうにもない時には、愛を。
目には見えないけれど、実感するから今日も明日も生きることができる。
そんな生きる力を得られるようになったからです。

 

じゃなんで、妹にとってそれが「理想論」になってしまうのか?

 

信じること・どのように受け止めるかは人それぞれ自由だから。
それに尽きるなあと、しみじみ感じます。

そして、
苦い味が心に広がる中、決めました。

理想論ではなくて、理想的な生き方。
行なって伝えるチョンミョンソク牧師のスタイルを私もホントに身につけよう。
と。

そんなわけで、良薬口に苦し的に今年がスタートしたのでした。