自分を大切にするって分からない人へ。

大切にするって分からない。
どうしたらいいのか。

そう初めて心底おもったのは15歳くらいだったとおもう。。。

自分を傷つけ、相手も傷つけて、いっそう不毛に陥る。
そんなことばかりだった気がする。

いつ頃からか、自分を痛め傷つける様になって、それが癖になっていた。
だれも止めない分、ひどい有様になる。
10代の成人と呼ばれるまでの5年は10年に匹敵する重みがある気がする。。。

その時に、何を見るか。
何を考えるか。

非常に重要。

かなり妙齢になった分、その頃を思ってそう思う。

たぶん、私は行動の表面に出てこなかっただけで、ひどく病んでいた。
今思うと、10年以上ずっとそんなんだったなと思う。
カウンセリングや心理学の本でだいぶできたけれど、根本的に「生きていていい理由」が見つからなくて苦しかった。

どんな本を読んでも、決定的な納得させられる「説得力」が欠けていた。
だから、生きていても生きている味がしなかった。
そんな残念な人生で申し訳なかった。

だから私が、わざわざ山梨から東京に通っていたその理由(今も実はまた通うことになって長くなったけれど(^_^;)
それは「生きていていい理由」を説得力を持って教えてもらえるからだと言える。

命がどのくらい大切なのか?
自分が生きていていい存在なのか?

それを納得させてほしい。
そんなことを腹の底に抱えながら東京⇔山梨の往復。気づいたら季節が4回変わっていて、私が初めてチョンミョンソク牧師の肉声を聴いたのが2004年だったと思う。

生きること、死ぬこと、それら二つを同じレベルで捉えている。
そういう人だと思った。
自分とは全然境遇はちがうけれど、どうして生きるのか?なぜ生きているのか?それを何千回も命を懸けながら天に尋ね求めたというその経緯が
乾いた心にリンクするように響いた。

いろんな不条理なことがある。
誰かを憎んだり、
環境のせいにしたり、
いろんなことについて腹を立てようとしたら限りがないし、それでいいわけがない。

どうするの、どうしたらいいの?そういう時。
そんな思いで食い入るように聴いていた。
ある時の説教で

—–神様はこういいました。
「あなたの隣人をあなたのように愛しなさい」
イエス様を通して神様がそうおっしゃったから、イエス様がそのように生きたから、私もそのように生きようと思って行ないました。

そういってその時のエピソードを話してくれた。
隣人を愛するその生活は、ある時は馬鹿にされ、誤解され、後ろ指まで刺される。
きっとその時は、恥ずかしかったし悔しかっただろう。
でも、そんな気持ちをみじんも感じさせずにオモシロく話している。
それを聴きながら、自分でも驚くぐらいに目の奥が熱くなった。

カッコイイ話か?っていうと、どちらかというと世の中一般では人に笑われた話、馬鹿にされた話って黒歴史ってやつだろう。
なぜ話すのか?自分を美化するためにもそういう話をしているというわけでもない。。。
何を伝えたいのか耳を澄まして聴いてみた。

「ひたすら神様を愛する」ってこういうことだよ。
神様がおっしゃったとおりに
おこなってみるとね、人生が豊かになったよ。
あなたもやってみたらいい。
今よりずっと幸せな気持ちになるから。

神様を愛して、イエス様を愛しているから、そう行なった。
その姿は、そういうのが愛なんだよって。

そういうかんじの説教だった。

目に見えない神様を信じることって難しいし、、自分にはそんな風にはすぐに出来ないけれど。
失くした何かが戻ってくる感じがした。
もうちょっと、話を聞いてみよう。
そして、自分の生活でやれることからやってみよう。そう思った。

それは今も変わらない。
なぜか?

神様の願うことを「行なう」その人その姿が神様からのメッセージになってる。

え?こんなことあるの?衝撃。
神様が人を通して語られるって、こういうことなんだな。

そんな存在に会えた!プライスレスすぎる!!!と思えてしまったから。

見るものを選択し、考えをよくするってやっぱり大事だ。

自分を嫌いすぎてどうしようもなかった。

愛ってなんなのか分からなかった。

それが過去になっているって

最近気づいた。
小さいけれどもたしかに起きている奇跡を見つけたのだ。

年月重ねたその分、年取った自分が鏡に映っている。
でも不思議なことに、嫌いじゃない。むしろ、なんか大事におもえる。そんな奇跡。

自分のことを大切にするって愛するってどういうことなのか?
いろんな本を読んでも、人に話を聞いても、納得がいかない方には、神様からのメッセージを受け取ってみる機会をお勧めしたい。

お前はもう死んでいると言われた女。

その敵意どうして?と思う目にあうと、不覚にも涙目になるか、血気出し応戦したくなるかのどちらか。
そんな極端な私。

これが皮肉か!Theイビリを体験のさなか、摂理(キリスト福音宣教会)の教会に通わなくなって久しい妹から烙印を押されました。

「理想論ばっかりで、行ないがない。」と、
つまりは聖書的にいうと「行ないがない信仰は死んだものである。」
⇒「お前はもう死んでいる」という事です。

じつは
それかなり前から、自覚があります。
分かっている・・・・分かっているけれど、そこで止まっている!!というところがマズすぎる。
ので、
ヌルいイビリ(ある意味コント)の一例をもとに思案しました。。。

「ボード持ってきて」と言われて持っていったら「ペンは無いのね」と冷淡に応酬という事例。

「じゃ、はじめからそのように言ってくださいね(怒)」と、思うのが私の考えのレベルですが、じゃチョンミョンソク牧師だったらこれどう対応するんだろうか?と。

それで思い浮かんできたその姿は・・・
血反吐を吐く軍隊生活で鬼上官と仲良くなったチョンミョンソク牧師。
平和友好関係を築くそのスキルというのか、そのマインドを得たくて、どうしたら良いのだろうか?と。
もしこの場にいたらどうされるんだろうかと。
もしもの妄想をしてみたところ・・

「たしかにその観点無かった!ごめんね気が付かなくて!次回気をつける!」と、

素直に明るく、認めるところ認めて次回に繋げられるように努めるんじゃないかなぁ。
気づかせてくれてありがとう!とまで屈託なく、言いそうだなぁと。
なんだか、その笑顔まで思い出せて来たらココロの中に生じた暗雲はいつの間に霧のようになくなりました。

そんな感じで、このようにこうだ。でお手本があるってしあわせ。
死んだ女の起死回生、復活の序章。
復活するには、完全に死んでこそだから。
幸先が良いかもしれない。
っと前向きに復活の生活を継続中。