失望を希望に変えるには。

今週の主日の御言葉が「つまずくな」で、つまづきとは一体なんなのか
明確に説いてくださったので、
教会メンバーたちの会話やつぶやきに「つまずいた!」とか「つまずかせないようにしよう!」などなど
あっちにも、こっちにもこのキーワードがみられた。

聖書でいうところ「つまづく」について、
なーんとなくのニュアンスでとらえていたので
じつは長年、この単語の取り扱いがすっきりできてなかったのだが、
「つまずき」とは、「失望すること」「諦めること」「落胆すること」だと教えてくださったのだが、この説明に大いに納得。

最近あった出来事を通して、まさにそれ!「失望」この2文字に尽きる。
と思ったことがあり、今週はもろもろそれらが整理されてすっきりした。

思い返せば私の人生はつまずきだらけだ。

諦めること、落胆すること、自分にも、相手にも失望することだらけだった。
だから、「生きていけない」そう思った。

こんな私でも生きるべきならば、どうか神様ちゃんと教えてください。
そんな思いを抱いていた10代。。。
人生に望みを見いだせないまま年をとるしかないのかと諦めきった中で
私に学びなさいと断言する存在にであってから、希望はただの言葉でも幻でもなくなった。

だから、今回あった「つまずき」=失望も、そのままの出来事にしておいたら力が抜けたままだったけれども
どうすればいいのか、
「失望するな」とおっしゃる天の意図と胸中とは一体なんだんだろうかと思う時、
神様の愛を伝えることに全身全霊かけている牧師先生の今までが自然と思いかえされてきて・・・
誰よりも一番多く、誰よりも深く、失望することが多かったはずなのに、
どうしてこうやっていられるんだろうか。
その問いを天に向けると、
失望で終わらせない方法という知恵と
神様からくる愛というエネルギーがその人の存在通してじわじわと湧いてくるその不思議を改めて体感した。

9/1に自殺する10代が多い。
この日が近づくと、あちらこちらで死を選択することを止めようとする呼びかけが始まるのを目にする昨今。
諦めと失望、言葉にならない苦しさがあるそのような時を生きているどんな人にも、
生きることに力が湧いてこないような時に
生きる意味と価値が分からない時に
諦めなくてもいい。
失望しなくてもいい。
あなたが生きていることが本当に素晴らしく貴いこと。
その心の奥深いところまで響くメッセージを
命を懸けて伝えているその人から聴いてほしい、聞ける機会があったらいいのに。
心から、こころから、そう思う。

誕生日が嫌いな理由は。

夏生まれ、に見えないと定評があるのですが、夏生まれなんです。

誕生日が嫌いなのは、年を取るから~なんて可愛らしい理由ではなくて、
それなりに辛い思いというか「なんでこんなことが・・・・」という思いが生じる確率が高い日だからです。

なぜ?かというと、両親が(特に父が)祝ってくれようと出かけようとするのですが、
必ず、と言っていいほど、問題のある運転をするため死にそうになるからです。

住宅地の道なのに40キロ以上出しながら運転したり、幅狭い道を対向車来るのにスピード緩めずにすれ違おうとしたり、
何かの映画の中にいるようなすさまじい運転です。

「危ないから」と止めようとすると、怒り出してもっとひどい恐ろしい運転になるため、
どうか事故が起きないようにとひたすら祈るしかない。。。。(幼い時からそれしかなかったです。)
でも、大分大きくなってからは、もう限界だという思ったら怒鳴って罵倒しながら車を降りる。
それが私の生き残る方法でした。

今は?というと。。。

どうしたら父がこういう運転はしてはいけないと理解が出来るようになるのでしょうか・・・・どうしたらいいのか私には分かりません。
というか、こんなひどい思いをさせられるならば、一体何が誕生日祝いなのか・・・
今日で最後にしたいです。というのがわたしの心の底からの叫びです。
と、本音トークで神様に告げられるから幸せだなぁと、思いました。
なので、
神様、今までこんなひどい運転をする父と、そして親を呪うような私を今日まで生かしてくれてありがたです。と感謝しつつ、本当に申し訳ないですと悔い改めの祈りをしました。

発狂したかのような叫びを上げることもできたし、車のドアを開けて飛び降りるという暴挙に暴挙で対抗することもできたけれども、
そういう過去やったことを繰り返すのは、こういう愚かな私たちを見ている神様的にはきっと悲しいだろうな。
とおもえたのと、
いつも神様に告げるのだよ~と教えてくれたチョンミョンソク先生のこと思い出せたんです。
先生が死にたくなるほど、先生のお父様からひどいことをさらりと言われたとしても、それらをすべて神様に心向けて神様からの愛をもらってお父様にもその愛伝えられたこととかモロモロのことが脳内に巡り、なんか思いとどまれたんです。

しかし色々こらえるのに、口の中また血だらけ気味になったり、もしかして何の関係もない誰かに迷惑かけるのでは?という心労で胃が痛くなり、
誕生祝で向かった料理屋さんに着いた時にはもうぐったりして食べるどころじゃなかったけれど・・・。

そんなこんなで頭痛もしてきて眉間に線も入り、美味しくご飯なんて食べられる状態ではない私の様子を見て、
父は自分の行動を見つめ直す変化が起こり、帰りの運転は模範的安全運転でした。

「言葉よりも実践だ」

という、チョンミョンソク牧師の哲学的言葉が、また別の味で味わえたのが今年の誕生日プレゼントでした。

骨身にしみるとはよく言ったものだが、神様を、チョンミョンソク牧師を知らなければ今の私はいないな。と思いました。

普通に親を愛すること難しかったのを久々に痛いほどしみて、赦せること祈ってあげられるようになったことも

ほんとに感謝しかない。と思ったのでした。