一日を生きたら、何を得たのか振り返ってみよう。

今日は父のことを改めて嫌いだと思ってしまった。
手をちゃんと洗わないことはよろしくないといったところ「うるさい!」と逆切れ一蹴。
昔からそんななので、自然と避けるしかない心否めない。

父から昔「お前は何でそんな暗い顔なんだ」と責められるような問を投げかけられたことがあるがその原因はあなたゆえですと伝えたのは割と最近というか、摂理で信仰生活を経験しつつ、山梨に戻ってきてからだった。

正直な思いを告げるってけっこう心の労力を使うらしく、、、泣きたくもないのに涙が出てきて非常に後始末が悪い。。。
そんなことがまぁワンシーズンに1回はある。そのように、心の中にしまわれていた痛みを改めて取り出して整理整頓をするかのように家族とのあれこれを重ねて今がある。

重ねたからこそ、変化したものもあれば、
正直、もう無理じゃね?つーか無理だわ。と思う自分と家族の姿もある。

でも、神様は無理じゃない。
新しくなれる。
諦めるな最後までだと常に、本当に私が何度も無理だと思ったときになぜか毎回、「最後まで行おう」そうチョンミョンソク牧師を通してメッセージをもらうその不思議。。。

最後まで行い続けている方を通して説いて投げかけてくるそのメッセージは
嫌です無理ですとは言えない。
愛はあるのだ。
と認めるしかなかったその姿は、今なお変わらない。
その姿をみると私もやってみようとなんでだか、そう思えてくる。。。

そんなわけで、自分と家族のための祈りをもっと強烈にしつつ
私は一日の終わりに今日平和と愛を成せたのか?を問いかける。

いつも楽しく甲斐に満ちて生きているチョンミョンソク牧師から「一日の終わりに何を得たのか振り返ってみてください」と、そういわれたときにやはり、そのように振り返りをしながらよりよく生きるんだなと改めて思った。
日常の積み重ねを意識するのとしないのとでは、天と地の差。
自分の間違いもうやむやにしないで善し悪しを割くことが出来るのも本当に感謝。

今日は一つ、父の対処の仕方を一つ得た。
手をそんなに洗いたくなければ、せめてアルコール消毒を。と設置してみたところ、手を水にぬらすようになった。(洗うというよりは数秒ぬらしている感じ)一応このご時世の最中にやはり父も考えることがあったようだ。(まだ洗うというには、いい難い段階ではあるが)
こうしろと命令されているような感じだと反発したくなるというか、自分のやりたいようにやりたい。そういうことのようだ。
相手の想いを尊重しながらもお互いが善とするところを見つけそこへ誘導する技術を付けていきたいものだ。と思った。
蟻のような歩みでも日進月歩。
小さな振り返りから今まで選択できなかった行動をとる新しい自分へ少し変化する楽しみ得られた。

逆境でも咲く花、実る実からおもうこと。

パクチー(コリアンダー)がめっちゃ好きなので種を蒔いて新鮮パクチーを食べるようになりました。

例年、秋蒔きで育てていたのですが、今年は夏に食べたい!!と思って、5月半ばに蒔きました。が、発芽したのは約1割。。。

タイ料理とかベトナム料理とかに使われているのに、パクチー(コリアンダー)自体は湿気や暑さが苦手な植物だそうです。。。

なので、なんとか発芽した子たちもひょろひょろと元気がなく、、、やはり蒔くべき時でないとこうも違うのかと、己の勉強不足、確認不足に後悔にじませつつあきらめていたのですが・・・

それでも

花を咲かせて実までつけていました!!

 

 

実もちゃんとパクチー(コリアンダー)テイストで葉の部分とはまた違った料理の楽しみ方が出来てうれしいです。


観賞用兼食材として華々しく活躍してくれています。

 

本来の時期ではないいわば逆境でも生きようとする力強さ。

通常より葉っぱも花も実も全部が小ぶりですが、
このように生きなさい。と、言われているような気がしました。

蒔けば、小さくても花は花。実は実。

1割だとしても、残る。

人は評価しないだろうけれど、自分だけはその意義がわかる。

蒔いたパクチーのタネの割合からするとたったの1割の収穫ですが鮮度と気ままに好きな時に食べられる楽しみが大きいです。

また、考え方を少し変えると
逆境でも咲いて実を残したこのパクチーのタネはより逆境に強い個体の可能性があるから
また次の世代もその傾向があるはず。。。。
少数精鋭ではないけれど、よりパクチーにとってむずかしい時期だとしても実を残す品種を目指すことも長い目でやってみるならば、もしかして出来るのか!?なんて思ったり。。。

植物と私の生活と人生と。

神様の下さる恵み感謝しながら、思い馳せます。