生きることの意味と目的を問い続けて今があることについて。

私の10代は、生きることと死ぬことを常に考えていた。と、思う。

いまコロナの影響で自死を選択する若年層が多いとニュースで頻繁に聞くようになり、私だけではなかったんだなと、時を超えて知った。

何故生きるのか?生まれてきた意味は何なのか?どうしてこんな思いをしてまで?何のための人生なのか?

そんなことを考えるなと言われるとき、苦しみと悲しさと目的も意味も不明確なのに辛くてもただ生きろと言われることに、一層の隔たりを感じていたことを思い出す。

今月、40になる私が今思うこと。

「生きていること」それが本当に大きい。
使い古された言葉だけれども、心から、実感できるようになった。
だから、もう40だとは思わない。

たとえ、結婚していないし、子供もいないからと憐れまれるとしても、私は幸せだと言い切れることの事実。
素敵な伴侶がいて、子供がいて、経済的にも安定してて、、、そういう人にくらべて「自分はなんて哀れで無様なんだろう」って思うことがないこの不思議さ。

何の希望も見いだせない自分自身が大嫌いだったことが致命的な辛さの一つだった
その治しようがない考えの病。

どうやって癒されたのか、それを振り返るとだれしも生きる中で一度は神様って呼ぶはずだがその存在に生かされたと認めるしかない。

ちゃんと愛があるならば、生きる意味があるならば、責任をもって行いを見せながら教えてくれる存在に会わせてくれ。私が死ぬのがもし悲しいと思ってくれる神様ならば、生きることが本当に素晴らしいならば、実感をくれ。と、願い続けた。

教えてくれる存在に出会わせてもらったあとも貪欲に求め続けたゆえの今だから。

私がこの世から去るまで、自分に起きた奇跡を一層感謝しながら、孤独の哀しみにいる人に少しでも届くように祈りながら
ブログを続けたい。

勧誘に気を付けて!という注意喚起を見るたびに。

春から初夏にかけて、毎年のように目にする。
それは、「カルト宗教の勧誘にご注意!」的なアナウンス。これはもう季節の風物詩レベル。

というか、そもそもカルトではないのにカルト扱いされる身、としては「カルトじゃないのにどうしてカルト扱いされるんだろう」という疑問から考察を重ねてきました。

恐らくは、よくわからない未知なものに対しての恐怖による憶測と警戒心でひとくくりにされているとそう察しました。

たしかに、得体のしれない輩に人生めちゃくちゃにされたくなんてありませんもの。。。

しかし、心配しないでください。
信仰って良くも悪くも簡単じゃないですから!!

簡単だったら、もっと信徒数増えているだろうし、こんな、地味でなんかないはず。(国が違えば、台湾は国も認める善良な慈善活動団体であるので様々、国民性ゆえなのかという声もチラホラ)

自分だって初めから「これはすごい!素晴らしい」とか思って東京まで通いながらバイブルスタディを学んでいたわけではないです。
むしろ、おかしなところがないか?と疑いながら、不安と不信を懐に抱えながら通っていたような輩でありました。(ホント不遜な奴)

変におしつけてきたり、お金をとったり、強要してきたら即やめよう。断固、連絡を断とうと思っておりました。なぜなら、わたしは歩く人間不信。

そんな私が

実質を確認したところ、、お金はとられない。(むしろおごってもらうことがあった)のと、わからないことは分からないとはっきり言われるし、信じるかどうかは自分次第だと委ねられ、
そういうやり取りをしてくれる人たちがとても素敵だったか?というと、どちらかというと、安心できるそんな、人たち。

まだ社会経験も少ない自分から見てもえらく純粋で、善良で、こんなんで世の中でも生きていけるの?という感じの人たちでした。

学校という世の中でも、強者として君臨するのは人を傷つける言動をする人たちが多いと私は経験上思っていました。

だから、人にかかわるのが嫌になっていたし、死に場所は山の中がいいと思いながら自殺する方法を考えていて、
人畜無害そうで有害な自分の精神状態から、そう死ぬのが一番妥当であると思っていた
そんな私からすると、人生穏やかに明るく元気に生きている人たちってそれこそ異次元で。

しかし、そんな生き方は私にも起こりうるらしい。。。マジか?と、
確認と実習をしたくて私は東京と山梨を行き来し、いったん東京で一人暮らしやら教会の人と一緒にルームシェアしたり、そのうえで山梨に戻ってきても本当に働きかけてくれる神様の御働きを実感したり、人間的には絶対無理。
ということを、小さいことから大きいこともまでいろいろ体験して、現在に至るのです。

ゆえに、信仰ってそんなもの自分の身の上に起こるわけない。と思っていたときよりは、確かに少なからずは信仰というものがあるとは思います。

けれども、まったく行いが足りないので、本当に私に信仰はあるのか?と自問自答するような始末。

と言うわけで信仰とは一朝一夕では生じえないので、石橋叩いて渡りたい人は叩けるだけ叩いてもいいと思います。私も叩いて渡る派というか、叩きすぎて割ってしまうくらいのタイプです。それ故、生きていく勇気もなくなってました。

そんな私が
死ぬことを選らばずに、生きていけるようになったのは、経験が本当に大きい。そう思うのです。

会社だろうが、学校だろうが、その狭い世界だけではない。そういう感覚得られたことも良かった。(昨今、サードプレスを持とう!という話がありますがまさにそれ)

自分とは、なんなのか?
自分が必要とされないのでは?そういう混乱と焦り不安が信仰生活を始めるからと言ってすぐに解かれるわけでもないです。むしろ、勝手に人と比べて辛くなることもあったり、自分とは、違う立場による見解のコトバに傷つくこともあります。

ただ、そこではっきり言えることは
自分を絶対に肯定してくれる存在が神であり、
必要だ。と言って、死ぬなと引き留めてくれるのも神であり、
誰も助けてくれなくても、慰めてくれなくても、
見えなくても
見える空や太陽の光や、時には通りすがりのおばあちゃんを通して、
励ましてくれるのも神様である。
そして、まだ生きよう、やってみよう。
そういう気持ちになれるように(そうなれないときは休ませてもくれる)導いてくれる神様でもある。

ヒトの考えだと、お前はもういらない、意味がない。死んでしまえばいい。
そういう考えと結論しか至らないが、そうではない。
と、ずーーーーーーーーーーーッと根気強く語って説き続けてくれる神様。

自殺でなければニート、引きこもりになるしかないような私だったから言えることですが、

宗教団体うんぬんというより、人対人というくくりにおいて、どうであれ人生経験を積めるのは大きな機会であると経験して思うのと、
自分の足で立って生計を立てて社会の中で生きていくなかで、どんな場所、どんな人と出会っても、絶望しないで生きるチカラを得られるのは信仰から来る希望と、いまだ悟りきれてない神の愛それしかない。と、心から断言します。

こう言う私を弱くて愚かだと言われても、死ぬこと考えて生きてた若い頃よりもずっと楽しく感謝しながら生きてるゆえに馬耳東風です。

そんなわけで、勧誘されるかもと恐れなくても大丈夫。本人の意思によらなければ何事も成されないので、ご安心ください。