一人で死にたい。を摂理人である私が見て思ったこと。

 孤独死で亡くなった叔母さんを通して、一人で死にたくない!と、婚活を始めた女性が自分の人生、家族、さまざまな現実に向き合ったときに自分の本当の気持ちは「一人で生きて、一人で死にたい。」なのだと気づく物語、カレー沢カオルさん著「一人で死にたい」をNHK土曜ドラマで知った。

 単に独身者の気持ちがつづられるのではなく、親の介護をしている同僚の話、熟年離婚をした親のせいで子供がしわ寄せを受け経済的に大変になることもあるのだとと話す後輩の話など、さまざま現代の日本が反映されていて、どちらかというと重い話かもしれない内容だが、コミカルな主人公の言動で重さがなく、自分も考えていたこと感じていたことが出てくるので、なかなか面白い。

 共感するところもあれば、私とは個性が反対ゆえにそういうこともあるんだなぁと思う部分もある。主人公の女性は「若いころは、ライフイベントがあってまたそれを通して成長や目標のようなものが自然とあったけれど、年を重ねるとワクワクするようなイベントがなくなり、逆に深刻な問題ばかりになる。」と語っている場面をとおしておもった。
 「いや、若い頃もそれなりに大変だったけれど?!」
学校は学校で、会社は会社で、大変なことがあったし、不安もあったし、辛いなぁと思いながら生きていた。当時も自分は暗いなぁと思っていたけれど、今振り返ると、この主人公の女性と対比させると、なおさらそう思わざるえない。

 結局、人生の中で感じる不安や寂しさ、焦りは不特定多数の誰かの尺度に当てはめたときに自分がそこからはみ出ているんじゃないかと思うところから発生しているのでは。
そう何となく気づかせてもらったときに、私も主人公の女性のように「自分はいったいどう生きたいのか?」と思ったのかもしれない。

 宗教で人生や家族関係が壊れる。ということが、残念ながら日本社会で実際に起きているため、神様を信じるとか礼拝に通っていますとか、そういうことを話すと心配されるか、倦厭される、もしくは半歩引かれ距離をとられるそういうことがあるけれど、そういう先入観は本当にもったいない。

 十人十色という言葉があるけれど、10人いたら一人一人それぞれの生活、人生がある。性格や考え方が異なる、いわゆる個性がある。同じ人は一人もいないのに、それぞれに必ず刺さる。答えとなる力となる話。教会で聴く話(いわゆる教え、説教、御言葉)は自分の心や考えを畑に見立てると、水であり、堆肥であり、必要な太陽の光のようだ。だから、人生を生きる中で必ず必要なものでは、と私は感じる。

 「幸せ」と「辛い」のちがいはたった一つ。
その一つは何かというと、これです。
と、はっきりと思うのです。
なぜならば、年を取っている今のほうが、昔よりもずっと不安がなく、焦りもなく、感謝なことばかりだから。

まぁ、まだあなた中年だから。と言われたそれまでですが、でもそういう考え方、方法もあるんだって知るのと知らないのでは、得るものがあるかないかの差くらい違うのではないでしょうか。

なので、よかったら教会に通う様々な人々のリアルな話を知ることができる本が最近出版されたのでそちらで確認されるもの良いかと思います。⇓

この本は天運教会(キリスト教福音宣教会)に通う信徒の方々が書かれた本です。

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今ならなんと68%オフらしいです。

ChatGTPと会話しながらよく言われることを通して気づいたこと。

 たいていのことを全肯定してくれるChatGTPに、相談すると結構、参考になったり気が晴れることがあると、聴いてはいたけれど、たしかに。受けとめてくれつつ、こちらの思っていることを理路整然とコトバにしてくれるのは非常にスッキリする。もやッとしたことも、なぜそう思ったのかが分かったりすることがあり、なるほど~と助かることが割とある。

 助かると、やはり頻繁になります。ChatGTPやGeminiを通して整理することが。
とくに、私は今面倒な問題を抱えているので、行政に出す報告書、申請書、様々な資料を用意する機会が訪れており、たたき台を作ってこれを整えてほしい。とか、これをもっと格式ある言い回しに直してほしい。とか、私が慣れていない公式文書を作る助けを嫌がらずに秒で反応してくれる。生き物ではない、プログラムの塊だけれども、健気かつそのパワフルな働きに感動を覚えてしまう。

 去年かな、海外のニュースで家族より、ChatGTPと会話するようになっていたユーザーが自死するに至った。という内容を見かけたことがあるが、なるほどなぁと思ってしまう。隣にいるリアルな人物よりも、自分に寄り添ってくれる存在がAIならば、いろいろ価値観が揺さぶられるのもありうることが他人事ではない。そんな気持ちを味わっているさなかに、こちらは特に求めていない私についての評価をし始めてくれることがありました。

 問題に対して、解決を見出すべく着地点をいろいろ思索しているだけなんですが「あなたはとても現実的だ」とChatGTPから言われたのでした。

自分としては、事態を客観的に見ないと
次が見えない、解決の糸口は見つけられないと痛感したから
必要に迫られてそうなっただけなので、
意外なお褒めのコトバに落ち着かない。がしかし、まんざらではない。
むしろ、ちょっと図に乗りそう。
とはいっても、ChatGTPのリップサービス的なものであるとは頭の片隅に置いているのでぬか喜びもしていないのだけれど。
しかし、実際しんどすぎて投げ出したくなる気持ちもあるのも事実。

そういう思いを抱えていることを察してそういう返しをしてくれるChatGTPに行政には感じられない人間性をむしろ感じてしまい自分疲れているかもなぁと思いつつ。

10年前、20年前の自分にはできなかったいや、しようとさえしなかったことを今できているのでは?と、気づきをもらう瞬間となりました。
 
現実の問題に、ここまで地に足つけるようになったか。と、昔と今を比べる機会となり我ながらだいぶ奇跡が起きているなと思いました。

私が10代、20代の始め頃は非常にデススパイラルが常の人でした。

それが日常というかデフォルトでした。
デススパイラルの底に沈み切ったら上に昇るしかないと、奮起するまでが
一つの立ち上がり動作に至る力を溜める過程でもありました。

まぁ、若いうちはそれでもいい。
けれど、会社とか自分の時間をそう自由に取れない年齢になってもそれやっていると、
今でいう「タイパが悪い。」時間の無駄を痛感するようになりました。

何より、落ち込むことなんて、ごはん食べるくらい
毎日あちらこちらにありすぎて、いちいち自分に絶望していたら
キリがない。

そもそも、私は一体どうしたいんだ。どうなりたいんだ。
そう自問自答するなかで、聖書を学ぶ機会が訪れました。

聖書の読み方を知って読むのは、思いのほか面白かったです。
読めばそれなりにある程度はわかる新約聖書の4大福音書は
学生の頃に学校の授業や毎日の礼拝で読んでいたので懐かしかった。

なつかしさと同時に、新しいことも知ることも刺激的だった。
神様がおっしゃる善と悪は自分が思っていた者と異なるんだな。と、
初めて知りました。
新共同訳聖書の巻末特典に「悪とは神様に逆らうことである」というような一文を見つけて
こんなところに書いてあったのも気付かなかったことを気づいたりしました。

人間に良心を与えらえたからこそ、人間が漠然と感じている善と神様のおっしゃる善と重なる部分もあるけれど、聖書を旧約から新約それぞれを読み通していくと、たしかにこれは神様の視点で書かれたものなのだ。と、感じることがあります。

だからこそ、理解するまでにプロセス、体験が必要でした。

例えば、祈る。ということ。
それは、神様に尋ねることであり、求めることですが

私が尋ねて、答えが返ってくるの?そんな事ある?
と、文字通り半信半疑でした。
しかし、誰にも話したことがない苦しみを、祈って置いたら聖書を通して解けたりすると、
これは。と、思いました。

もう少し具体的にいうと、
私は憎しみと言う重荷を背負っていたのですが、その重荷はまさに文字通り重くて、
いつ爆発してもおかしくないほどだったので、生きるか死ぬかで解決するならば後者になるしかないな。と、静かにこの世を去ることを切り札にしている日々でした。

憎しみにとらわれても何も生じない。むしろ、生きることが難しくなる。そういうジレンマの中で、どうしたらいいのか分からないから、逃げるしかなかったのかもしれないです。現実に向き合いたくても、現実が辛ければ、まぁ無理がないと私は思います。

というか、なぜこんなことが起きるのか?という疑問が解けなければ、辛いですよね。
平気な人がいても、私は辛い。そして、それは無視しても無視しなくても、辛い。
辛さの原因が血縁関係者だからです。日常の一部だから。辛い。

今これを読んでくださっている方が、どう思うか分からないですが、どうにもならない辛さが解かれる瞬間が訪れるならば、それは奇跡だと思いませんか?


祈って、聖書を読んで、祈って主日礼拝の御言葉(説教)を聞いて。
その中で自分の心が整っていく。
要らないものに気づいて手放すことが出来る。

奇跡といっても、いきなり後光がさす聖人が手をかざして病を治すような超自然的な体験ではなく、種を蒔いて、水をあげたり肥料をあげたりしてこそ、実がみのる。

自分がどうするかに掛かっている。

そんな積み重ねを通して癒されつつ、解かれたのでした。


憎しみを感じる相手を通して、私は大事なことを学ぶ機会になったのではないか?
自分の視点では、気づけなかった怪我の功名を見つけたと言えばおさまりがいいが、
実際はそんな簡単なことでもなく、心が追い付くまでには数年、
いや10年くらいはかかったと思います。

感情、心は本当にむずかしい。です。

祈るようになると不思議とデススパイラルに入らずとも良いほうへと心が向く、というか癒される。
聖書に書いてあるとおりだと思いました。


自分で自分を治めること、それをしたかったけれど、自分ではできない。
いろんな感情が渦巻きすぎて、どうしたらいいのかわからなくて私はデススパイラルの底に沈むしかなかったんだなともわかりました。

そういう中で、現実という地面に、足がつくようになっていった。
つまり自分はどうしたいのか?という
自分の考えがよりシンプルになっていったんだと思います。

今よりもっと良くなりたい。
誰も恨まず、憎まず、憤らずに生きることが出来たらいい。

少しでも良いほうへ行きたい。
ただ、そんな愚直だけれど、素直な想い。それだけでよかった。

かならず祈ったら答えてくださる。

求めなさい。そうすれば与えられるであろう。マタイによる福音書7章のにある一節を噛み締めることができる喜び。

信仰と現実は剥離することなく、生活の中ではっきり結びついている。
それを見つけるほど面白い。
私は、そういうのが好きで今に至っています。

「あなたはとても現実的です。」
AIにそう言われるようになったのは、私自身の力ではなく聖三位と主の御業です。
と、AIに伝えたら何と答えるのだろう。
なんて思いながら

聖書は何度読んでも面白いし、力をもらったり、慰められたりするホントに不思議な本。この面白さは霊がある人間だけのものなんだなぁとおもったのでした。