自分を大切にすることって、どんなことなのか。

むかーし、たしか中3だったとおもう。担任の先生から自分を大切にしなさい。と言われた。

どうしてそう言われたのか、どんな場面だったのか今になっては思い出せないが「そう言われても、どうすることが大切にすることなのか分からなければ、大切にできないのでは?それを教えるのは誰?」と、思ったそのことだけは覚えてる。(担任の先生のことそんなに嫌いじゃなかったけど、反抗期?なんか自分も周りも大嫌いな時期で尖っていたからかなぁ)

その問はわりかし長く抱きつつ、歳を取っていったけれど、これという大切にする仕方が全くもってちゃんと分からずであった。

でもそれって私だけじゃないんだなぁとなんかの折に見た映画やら、ドラマやら、小説やら、漫画等々だけでなく、2000年代初頭の雑誌に自分を大切にすることについての特集が組まれるまで至っていたのを目にした記憶がある。

物事の価値観が画一的だと、そこにあてはまらないものは価値がないものとなり、自分はそれだと思ってしまうというのが客観視で見えたこと。

自分自身を見るときになぜだか劣ってるのではないか?不格好なのではないか?そんなふうに見えない誰かというか不特定多数の誰かを引き合いに出して自分を見ると大抵落ち込むしかなく、それがまさに自分を大切にしてないことなんだと気づいたのは恥ずかしながらだいぶ最近だ。

どうであれ、自分は一人しかいない。

それを、どうして尊く、貴重に思えるのか?見えるのか?

むずかしい言葉で言うと人権だが、個人の心理で言うならば、生きてる喜びによるのかもしれない。

自分が今存在するに、どれだけ生かされ助けてもらっているのか謙虚に思いを馳せると感じられてくるときもあるけれど、何よりどんなときに一番生きていると思えるのか?それは正直に、ありのままであれる瞬間だと思う。別の表現で言うならば、それは真夏の日に氷水を飲んだときみたいな。

そういう当たり前に必要なことが、ありのままであるときだとおもう。

それは趣味でまかなえることかもしれないが、魂レベルで生きてて善かったとおもえる正直であるとき。というのは、休みたいときに休むように、今、話すべきことを神様に告げるとき。こんな自分ですが、と。

祈ったことがない場合、それは単にあなたの独り言では?と思われるかもしれない。けれども、独り言ではないと言い切れるのは、独り言では決してなし得ない温かな気持ちが広がるから。

強張っていた心身が安心して休める場所を見つけてようやく安心して穏やかに体を緩めて心が和むようなかんじ。

そういう瞬間は、祈るとき以外にも旬の美味しいものを食べるときに最高に美味しいと思う瞬間にも似ている。

たぶんそれは、自分にいま必要なことだからではないかと思う。

自分が心地よいと思える瞬間、瞬間を見つけていったとき初めて「自分を大切にすること」が分かった気がした。

そして、自分を愛するように隣人を愛しなさい。と言われたイエス様が伝えられた神様の言わんとすることがほんの少しだけ味を感じられるようになった。

今いる自分もそして、みんな一人ひとりもなんか意味があって、絶対必要。だから、存在している。

だから、まだまだ足りないところ、作るべきところは作ろう。そうして生きていけばただ年取るだけでなくて、もっと楽しくなるし誰かになにか与えられるような生を生きていける。そんな希望と愛が湧いてくる。

どんなに足りないとしても一人一人の人間を尊く見ている創造主を知ることが自分と他者を大切に生きることだった。

 

 

根本の問題をとおして誕生日おめでとうの因果が解かれた話。

私は存在していていいのだろうか?そんな思いに駆られることが多かった。
そのせいなのか、「神様が私を愛して創造された」ということを聴いても自分の話として受け取れられなかった。
そんな私がどうして信仰生活やら、教会の会員として存在しているのか?というと、真理だけでもかなり人生の多くの問題が解かれたからだ。
しかし、やはり愛を知らなければ、「愛がなければすべて空しい」と新約聖書にあるように、まさにそれ。
あんこが入っていないアンパンのような自分だなぁと、まがいもののような自分にまた申し訳なさ引きずって数十年。

それに気づいたというか、認めるようになったのは最近の「根本の問題に向き合う」というキーワードによる。
「なぜ自分は創造目的を実感できないのか」創造主に反する恐れ多くも事実、私が抱えるこの思い。
わたしという存在は、親に喜びよりも苦痛を与えてしまっているのではないか?と、幼少のころからの祖母と母、母と父という家族のやり取りで自分の存在の懐疑的な思いが生じたといえる。それに気づいてはいたけれども、まさかこんな年を取ってまでもそれがかなりの影響を与えているとは思いもしなかった。
親に辛さを与えるような存在が、まさか創造主に喜びがあるだろうか?私のなかにそんな考えが大きく自我の根底に横たわっていることに気づけたのは、私と同年代の夫婦が子供を愛しく大切に思いながら育てているインスタグラムを見た時だった。

「世界は美しい。それを子供に伝えたい。」と語っている彼女。わたしとは全く違う世界の見え方と感じ方をしているからこそ、喜んで結婚をし、子供を産んで日々育児家事の大変さで泣き笑いを明るく幸せに生きているのを感じた。
それをうらやましいと思うよりは、むしろそんな風に思えるのはなぜなのか?という疑問のほうがはるかにまさって大きかった。
明白なのは、私が存在してきた家族とは大きく違うからだろうなとただ漠然と、確実な事実を認めるだけだった。

今年の四月、ずっと日曜日の説教の流れの中で「矛盾の問題、根本的な問題」その部分が私に突き刺さった。
神様の愛、真理を教えてもらったのにどうして喜びが足りない?喜べない?その原因は自分にある。とわかりつつ、どうしたら喜べるようになるのか?どうしたらもっと幸せに感謝感激で生きることができるのか?そうありたいのに、そうでない自分を知っていながらただ惰性のように生きている。ちゃんとわかっていないならば、ちゃんとわかるようにしてくださいと直球で祈り続けた事の答えだと思った。

だから、本当にふとした瞬間にそれはそよ風に乗って季節の花の香りが届くように、その答えが私の心に届いた。
創造目的をイメージできなくても仕方ないんだ。

それは、自分で言い聞かせるというよりは、私の長い話を静かに最後まで聞いてくれたうえで大丈夫だよ。と、穏やかに抱きしめてくれるような感じだった。

そうか、私はずっと悲しかった。それを認めると、たぶんそうなった環境や対象を恨むしかない。寂しい、悲しい、辛いというコトバにしてしまうことでもっと悲しく辛くならないように、目をそらし続ける癖が無意識に生じていたのかもしれない。

 

小3のときの過呼吸で死ぬかと思ったときがあったことや、小6にしてすでに飛蚊症が強かった(ストレス性のものが考えられると最近分かった)のもぜーんぶ一人で対処していろいろ頑張っていた証で、そんな私をずーと見ていてくれた神様、創造主の視点があったことを感じたのだ。

喜べない理由をわたし以上に知っていたはずの神様に私は「こうだから、こうなので、私がもっと喜んで生きることが出来るように助けて下さい。」そう願い求めるようになった。
そうしたら、なぜか、本当に不思議だが笑顔で心が穏やかになった。
そういう心をくださったからだと思う。

祈りは対話。と教えてもらったが、ほんとうに言い得て妙だ。
正直にありのままを告げると、このように心の転換がある。
幾度となく、そうありがたい体験があったけれども、さらに更新をした5月のはじめだった。

「誕生日おめでとう」は慣例としてどうなんだろうか、と思って長かったのだが、神様の創造目的(人間が生まれて来た理由)を知ったうえで、生きて死んでいくすべての瞬間をその意味とリンクさせられるので、どっかのだれかに何と言われても確かに嬉しく生きるのを楽しめる。そう思う。

そんな自分をおめでたいと言われようが、「おめでとうの意味をちゃんと自分のものにしたいと思いませんか?」と問いかけて、相手の反応を見てみたい。