老いを感じるが、焦りというよりは貴重さを感じること感謝。

40過ぎて、やはり老いを痛感する。

これ以上、どんどん老いることが手に取るようにわかる。

30代半ばから中年らしいが、そういう扱われ方はそこまでなかった。

が、40からは完全な中年の扱いされてるのをひしひし感じる。こうやって高齢に向かっていくんだろうなあ。

私があまり結婚願望も出産子育て願望もないから焦りもないのかもしれないけれども、でも聖書を通して自分が知りたかった生きる意味について知らなければ、恐らく他者と比べて(もしくは勝手に比べられて)不安を感じたり、焦燥感にまみれていたのではと、過去の自分をおもうとそんな想像がリアルに浮かんでくる。

知った分、追求して生き、日々歳をとって行くことは、老いによる不便さは経年進むほど出でくる覚悟は必要だろうけれど、それ以上に確かなものが蓄積されていくから、今が20代の時よりずっと幸せを感じて生きて自分も自分のことが好きになったようにおそらくは50代もより感謝して生きてる気がする。

変質と変化は同じ「変わる」だとしても、対極だ。どこかで聞いた話だが、エネルギーを加え続けない結果が、変質でエネルギー加え続けることが変化だとか。目に見えない朽ちない体についてイエス様の弟子(と言っても、生前にあったのではないパウロ)が説いてる新約聖書の一節を思い出す。

「肉の体でまかれ、霊の体によみがえるのである」(コリント人への手紙第一15:44)

折しも今週の主日礼拝主題「イエス様は霊で復活なさり、霊で再び来られた」だからか、このコリント人への手紙15章全体を読むとすごく感慨深い😳✨

聖書が、昔の誰かの話ではなくて自分にも繋がってる!そして、力を得られる!というのを誰かに話したい〜と、思わず思ったので書いた次第です。

 

 

寒空の下、餅切り分けながら。

年末恒例の餅つき。

いつもはとくに関わることはない私だが、父の都合で午後から作り始めたゆえに、日が暮れる前に終わらせるべく猫の手として駆り出されることに。

山の麓のような家なので、3時過ぎると日が入ってめちゃくちゃ寒い。その前に終わらせねばということで、和菓子製造でバイトしたことがある経験値活かし、もち切りマシーンさながら切り分けた。

昔はやりたいと言っても、手伝わせてもらえなかった(うまくできないと思われてたのか?)から、携わらないのが定位置な自分だった。

そんな振り返りすると余計に自分も、親も年をとったんだなぁと、感じつつ、餅を切った。

配り歩くのが喜びらしく、餅屋として開業してもいいんじゃという量を切った。

こんなに作らなくても、と漏らす母。に、聞こえないふりをしてるのか、ごまかすように陽気な父。年末、餅屋副業にしてもいいんじゃと調子づく私。

来年も、こう出来るかは色んな意味で分からない。だから、なんだか楽しく出来たこのひとときはきっとあとで寒かったけれど、良かったよねと思える気がする。

こんな和やかにともに過ごすことができること、以前を考えるとホントに新世界みたいなもの。

まだまだ愛も、平和も成すために培うべきものもろもろありすぎる、まことに足りない自分ですが

こいつぁ幸先良いなぁと、年の瀬に、これからのより良いときを感じたのだった。