世界最高峰といっても過言ではない羽生選手の一言から教えてもらったこと。

怪我をして4日ぶりにランニングをしたところ・・・
体が重い。
普段登れた坂道が、非常にしんどい。

プロみたいなピアニストの友達や
プロみたいなバスケット選手の友達が
一様に「1日でも練習を休むと体が鈍る」と言っていたけれどコレか?と思いました。

しかし、プロ級の人は1日の休みによって失う自分のベストコンディションについて想像以上の悔しさだろうな・・・そう思った時に、フィギュア男子個人戦二連覇を狙っている羽生選手のコメントが思い浮かんできました。

「不安ないんですよね。
これ以上ないことをしてきたので不安要素はないです。

今この場所でやれることをやりたいと思います」

しかし、羽入選手一時は足首が動かないくらいの状態だったそう。。。

昨年11月に右足首を負傷した羽生は、その後の経過を明らかにした。
直後は右足首を動かせず約2か月も滑れなかった。
トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を跳び始めたのが約3週間前で
4回転は約2週間前に練習再開したばかりという。

引用元:読売新聞

そういう状況の中で、
「これ以上ないことをしてきたので不安要素はない」
と言い切れる、精神力と実体化できる実力のすさまじさ。

しかし、不安だった部分もこのように語られていました。。。

氷に乗ったのが1ヶ月前。どんなことに集中してきた?苦しかったのは?

「んー、体力に関しては不安でした。
氷上に乗ってなかったので感触だったり感覚だったり、不安ではありました。
滑ってみて五輪出れると思えるぐらいの練習はしてきているので問題ないです」

引用元:朝日新聞 藤田太郎記者ツイッターより

「五輪出れると思えるぐらいの練習はしてきている」
経験と鍛錬があってこそ言えるコトバ。。。
足首が動かない。ってかなり深刻だったはず、しかし「今はこのように滑れるんで問題ないです」と平安に話されている姿を見て驚くしかない。

どんな練習をしているのだろうか?と気になったのですが、
羽入選手はぜんそくや古傷の影響で練習時間はいままで約2時間に集中して練習をされてきたそうです。

羽生には古傷がたくさんある。腰や左ひざ。足首の剝離(はくり)骨折。
昨年11月に痛めた右足首は、けがで関節が緩くなり、捻挫しやすい場所だった。
2014年11月の中国杯で他の選手と衝突し、頭部や左太ももなど5カ所を負傷。
翌月の全日本選手権後には、胎児期に必要な管が出生後も残っていて痛む「尿膜管遺残症」と診断されて手術を受けた。
ぜんそくで気道が狭く、古傷もあって長時間練習できない。
それを支えるのが、厳しい条件下で言葉で動きを整理した練習効率の良さだろう。

引用元:孤高の星より

人類史上最速のスプリンターと評されたウサイン・ボルト選手も生まれつき背骨が曲がっているからこそ、そのハンディをどう乗り越えるのか研究と練習を重ねたそうです。
お二人に共通しているのは、
自分の全てを受け入れて「徹底的に努力する」ところ。

不安をなくせる努力ってどういう努力なのか。

良く出来るに越したことはないけれども、よく出来るか出来ないかを考えるよりは
不安がなくなるくらいの努力をすることで、新しい次元・新しい自分になることは確か。

不安がなくなるほどに努力する。
それはだれもが自分の意思次第で手にすることが出来る武器なんだ。。。

努力し続けているチョンミョンソク先生がおっしゃっていたのはこういうことなんだなと
世界最高峰にいる実践者を見ていまさらしみました。

「宗教アカン」って思ったエピソード復活ってどんなものか。

私が人生の中で「宗教アカン」って思ったことがありますが、それは「死んだ人間が生き返る」っていう話を真剣に説得された時でした。

いつ?というと
それは摂理(キリスト教福音宣教会)に出会う前。

どこで?というと
山梨の山梨市にあるキリスト教の教会でした。

どこの教団なのかはいまいちわからないですが、どちらにしても「死体が生き返るのが復活です。それが神様の御業です」と大真面目に言われても信じることは私には出来ないというか、もしそれを強要されるならば無神論者になる方がいいかもしれない。そう思った記憶があります。

だって、人生とは一体何の為にあるのか?それを知りたくて、私は教会に行ってみたのに、それが分からないまま生き返っても、ツライのが無期延長なだけで解決にならないから。。。

そんなこんなで、これがキリスト教ならば私はクリスチャンにはなれないなぁと思ったんですけれど地球をわざわざ作った神様について感覚的に私は否定できなかったので、ちゃんと教えてくれる教会がほかにあるんじゃないか?とほのかな期待を抱いてその後もいくつか教会行きましたが、きょうはその話は置いておきます。
今日のワンポイント「復活」
この「復活」について再度強烈に考える機会があったのは伯母のお葬式でした。。。

伯母はクリスチャンだったので、お葬式が礼拝式でした。
牧師さんのメッセージで「キリスト教では復活が望みであり、私たちはそれを信じていますが、死体が生き返るというのは信じがたい話ではあります。何か意味がある話だと思いますが、それは信仰があってこそわかるのでありそして、それがわかる日が来ることを望みとしております。」と・・・わかるような、わからないような曖昧な希望について話されていました。(っていうかおばちゃん、火葬だったので死体の生き返りではないということは分かっているということだなと推測できました)

しかし、信じるのは自由だけれども、その曖昧さでは人生かけて私は信じるには至れないなぁ・・・
そう思いました。正直なところ。。。

イエス様が死人を生き返らせた記述は事実であるけれども、死人を生き返らせるという意味がそれならば全員生き返ったら食糧問題はじめ多くの社会問題が噴出しそうだけれど、どうなるの?
等々現実的に疑問があったので、死体が生き返る復活は信じる信じないというよりはどうしてもスルーするしかない
こんな私ですが、どうして神様信じているか?というと、復活を体験したからです。

摂理では復活について霊的な死と肉的な死があるということ。
死の概念について聖書をもとに明確に説きつつ、自分の生活で確認もできる「復活」を教えてもらえました。

なので、どうしてこの摂理(キリスト教福音宣教会)がカルトなのか?
いまだに分かりません。(やっぱりカルタと間違えているんですかね(´・ω・`)その疑惑についてはこちら⇒摂理がカルトではないことをカルタをつくって説明してみた

公平で、誠実で、正義感のある方ほど
カルトだと断言する前に、その尊い名誉に傷がつかないように、確認と共に慎重に発言されるのがいいのでは?
と老婆心が起きる今日この頃です。