時間についての考察が深まる神様のみことば。

Time is moneyとよく言ったもので、お金と時間はイコールで結ばれるくらいに貴重だと
誰しもうなずくしかないだろう。
学生の時よりも社会人になった時に痛感する人が多いかもしれない。
もしくは、家族を作って子育て期の方々に多いのかもしれない。

いずれにしも、人生を生きる中で老いも若きも時間は止められずに、進んでいくし
よくできても、よくできなかったとしても時間はなくなる。

「人生の意味を知るために人生があるんだとおもう」と
「死ぬ時に生きてきたとおりに答えと目的を得る。悟るのだろう」と話している人が結構いるのを見聞きしてきた。

 

生まれてきてから死ぬまでの時は定まっているが
わかって生きることはできない。

つまり、時を定めた神様にしかわからない。ってことだと痛感した。

わたしは分からないまま生きるなんて、辛すぎるって思った。
でも、時間の使い方についてのHow to本はあっても、目的と意味を教える本はなかった。
そして、生きる意味と目的をわかって生きる人生を実体験を通して見せながら教えてくれる人を探したがいなかった。

なので、知らないで生きるのは仕方がない事なのか・・・と諦めた。

諦めて、惰性のようにつづくような変わり映えのない日常に
閉塞感を感じながら生活していた。摂理に来る前までは。

 

 

今朝の箴言で

<時間>について分からなければ、「時間の味」も分からない。

<時間>は「よく使う味」だ。
キリスト教福音宣教会-摂理 チョンミョンソク牧師による箴言

とあった。

摂理に来てから神様の観点でみる歴史と人間の人生について知るようになってから
私の時間に対する感覚がかなり変わった。
以前は、12/31が来てから「あ~なんか、あっという間だったな~何かいろいろあったけれども、なんか残ったものがあるのか?と言われたら何もないな」という感じが否めなかった。
もちろん、今も「あっという間」な感じはあるが
挑戦できた。=自分の変化
が、摂理に来てからはあるので、
時間を使う=成長するという意味で
私は時間の味を感じるようになったのだ。

「人生、一生自分を作ることだ」とチョンミョンソク先生がおっしゃっていたが
本当に、自分を作ること・直すことができる
神様の御言葉(みことば)を学ぶことができて本当にしあわせかつ感謝。
だと、時間についての認識の変化を通して思った。

職場のイジメを通して得たこと。

東京で暮らしていた時、私は派遣社員としていろんな場所・会社に勤務をしていました。
ある会社で書類仕訳整理の仕事をしていたのですが
新入りさんに仕事を教えて差し上げる立場になりました。
その方は定年退職してから派遣社員として働くスタイルの方だったので
ずっと年上で親ぐらいに年が離れていました。

今までの仕事とまったく違う内容で戸惑われつつ熱心にメモしながら就業されていました。
質問も細かくて、根本的な内容までも訊かれてきました。

長年、正社員で管理職までされていた方ゆえの責任感を持った視点での考えなんだろうなと思いました。

しかし、何の権限もない私には「どうして?」という疑問には答えられず、
申し訳ないですが課長に確認をお願いしますとその都度お願いをせざる負えませんでした。

その方の実直で丁寧な質問する姿勢にすごいなと学ばせてもらうところもありましたが、
どうして、そこまで?と思うようなところは若干否めなかったため、
ある日、同じ派遣社員仲間の人が「あの人ウザくないですか?」と話しかけてきました。

これは、不穏な空気。。。。

「いちいち聞いてきて、言われたことをしているだけでいいのに・・・めんどくさくないですか?
そこまですんなよっておもいません?」

どう返答したらいい考えあぐねつつ
「慣れていないだけだから、なんじゃないでしょうかね~」と

否定に同意するような話の流れにならないように返しました。

しかし、日増しに不穏の火だねはとうとうあらわになりました。

わたしにもそれに加われというのを暗に迫ってきました。

 

あ~これは加わらないと私も同じ目に遭うだろうね。と勘づきました。

私が御言葉聴いていなければ、おそらく彼らの一員になったのかもしれませんが
何が悪いことなのか善い事なのか?
良心ってなんなのか。
それを聖書について
お祈りについてチョンミョンソク先生が教えて下さったので、意を決して言いました。

「仕事を一生懸命にしている人を悪く言うのはどうかと思う。」と。

そうしたら、案の定。
私も同じく馬鹿にされるようになりました。

やっぱりね~

でも、まったく心は楽でした。
腹立つことや、嫌な思いはするけれど、せいせいしました。

ある日、私がその職場の契約が切れて後にする日が来たとき
「わたしが悪く言われているのに、普通に接してくれてありがとう。」
そういわれました。
感謝されるようなことなど、何一つしていないので
え?と
おどろく私に続けて

「どうして、あなたは流されなかったの?」と尋ねられました。

 

人生を生きる意味が分からな過ぎて死のうかなと思ったけれど
聖書を学んで、神様の愛と真理を知るようになってから
何が良い事なのか
何が悪い事なのか
どう生きたら一番いいのかが分かったから
だから流されない。

私を生かしてくれている神様がすごいことを知っているから
だから、平気なのだ。
そう伝えました。

 

摂理で聖書を学ばなければ、こういう乗り越え方はできなっただろうな~
そう思う経験です。
昔だったら、きっと暗闇の中に座り込んだ感じになっただろうけれど、
真理の剣で裂くべきものを裂くことができる
そのすばらしさを痛感したのでした。